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自分で企画すること①これぽーと

ぼくはコロナ禍の2020年以降にいくつかの自主企画を始めることにしました。今月はじまった「みなみしまの芸術時評」は、それらの活動を踏まえたものなので、まずは、これまでの活動を紹介したいと思います。

2020年からスタートしたのが、全国の美術館の常設展・コレクション展に訪れてレビューする「これぽーと」というメディアです。執筆者をツイッターで募り、これまでに120本以上のレビューが掲載されています。日本では、美術館もメディアも企画展を中心にまわる構造があるなかで、本来、美術館の中核にあるはずのコレクションの収集と保存、研究を踏まえた、それらの成果としての常設展やコレクション展にフォーカスしようとするのが目的です。ふつうのことをふつうにやる。これがこれぽーとのテーマです。もちろん、こうした活動がありがたいことに注目されること自体が、美術館とメディア、批評を取り巻く現状への問題提起になっています。つまり、ふつうのことがふつうに見えないのはなぜだろう?という疑問を、疑問としてではなく、非常に率直なレビューの執筆と編集を通じて、投げかけていくということです。週に一本という当初の投稿スピード感とは変わってきていますが、先週も久しぶりに一本公開されました。もう3年以上が経つことに成りますが、コロナ禍のオンライン発信ブームとともに終わることなく、息の長い活動のしていくことが、これぽーとの役割だと思っています。

さて、これぽーとの活動にはもうひとつ重要な視点があります。これはぼく自身もやっていくうちに気付いたことです。

ぼくが具体的にこれぽーとでやっていることを説明します。2020年のスタートの時点に集まっていただいた20名ほどのグループやほかSNSを通じて執筆者を募り、希望者にレビューを書いてもらう。それからはぼくが編集に入り、何度か改訂をして、完成。画像の利用申請が必要な場合は、美術館に連絡。定時を日曜日の21時としてこれぽーとのサイトにて公開。作品を見る、レビューを読むということと、実際に自分でレビューを書くことはまったく異なる体験です。書こうとすると、何かを説得的に確認することが色々と出てきて、改めて展示に2回、3回と訪れるひとも少なくありません。編集の過程で、文章が変わっていくのですが、それはレビューの場合には、作品や展覧会の見方が変わっていくことを意味しています。こんなことをいうと、編集者の方には笑われてしまうかもしれませんが、編集には可能性があると思ったんです。それは、プロの書き手を育てるという意味でありません。そもそも客観的に見れば、これぽーとはそうした書き手によるレビューメディアではないでしょう。読者数の競争で、既存のメディアと競い合ってもいいことはありません。では、これぽーとは何をしていることになっているかというと、美術に関心のあるひとが一度、書き手になることによって、よき読み手や鑑賞者になるというプロセスを生み出しているのだと思います。あらゆる書き手は読み手であるように両者はもちろん両立するのですが、書くことを介して、読むという順序の重要性にこれぽーとをやっていくうちに気付いてきました。ぼくの直感では、読者数が100倍になるよりも、書き手が10倍になるほうが実質的な意味があると思っています。ここは編集という表には見えないところで動いているので、いわば楽屋裏の話でもあるのですが、いまはぼくのやりたいことは、そこにあります。

言うまでもなく、これぽーとは第一にメディアです。メディアである必要があります。しかしその動きを生み出しているエンジン部分を見てみると、編集という営みがあり、ぼくはそれは学校に近い活動だと思っています。これぽーとは「学校」という看板を掲げてはいませんが、現に2020年のことを思い出してみれば、まずコロナ禍であまた開かれたオンライン企画のひとつとして、ともにレビューを書くというゼミのような活動でした。そうして始まったほとんどの活動がいまは止まってしまったように見えるなかで、これぽーとはしぶとく続いています。それは面白い常設展を発見して、書きたいと思ってくれる全国の方々のおかげなのですが、主宰のぼく個人としては一時の熱量やPV数ではなく、その裏側で行われている何かに関心があったからだと思います。それはふつうに言えば、「編集」ということになります。ただ編集における書き手と編集者、これぽーとにおける書き手とぼくの関係性は、教える-学ぶとはちょっと異なったものだと思っています。実際にぼくはレビューとは何かを知らないわけです。美術手帖のレビューは分かりますし、TokyoArtBeatのレビューも分かります。アートコレクターズの展評もわかります。しかし、それだからといって、展覧会へのレビューはこうあるべきだ、という定義がわかるわけではありません。来たものに対して編集をしながら、考えるほかないのです。よく作家が作りながら考えると言いますが、レビューにしても同じことです。ワークインプログレスでないとしたら、知っていることを知らない人に教える形にしかなりえませんが、これぽーとはそういうものではありません。ただ、なにかの情報伝達が相互に行われていることが確かで、その成果物として、あるひとつのレビューが出来上がります。数年まえにちょうどレビューを提出してくれた学生と、夏の大阪の喫茶店ではじめて対面して、そのレビューをめぐっていろいろと話し合ったことがありました。あの瞬間のあの行為を、ぼくは学校のひな型だと呼びたいし、そう呼ぶためのプラットフォームとして、これぽーとは機能しうるはずです。とはいえ、ぼくと書き手は水平的な関係で、完全に対等だとは言い切れないし、その必要はないと思いますが、ぼくはその編集のプロセス全般を束ねるために学校という概念を使ってみたいと思っています。もちろん書き手によって編集の度合いは異なりますが、2020年のぼくは常設展レビューメディアを始めます!という宣言によって、同時に学校をやりたかったのかもしれないと、いまは理解しています。その動きをもっと発展させていくにはどうしたらいいのか。学校という概念を自分で一から練り直して、実践させていくにはどうしたらいいのか。そのための実践その1が、これぽーとなのです。
(つづく)


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