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『忘れる』ということに傷つく心を癒す

 心を癒すと一言で表現しても、目的によって色々な方法があると思う。小難しい人付き合いで疲れた心を慰めたいのか、それともテレビやSNSにあふれる悲惨なニュースに耐えかねる心を治したいのか。

 誰かとの死別を経験した心はどうやって救えるのだろうか。グリーフケアという言葉があるらしい。専門家ではないので詳しいことは知らない。手近な辞書でも引いて意味を調べようと思ったのだが、持っているのは類語辞典だけだった。特殊な言葉は載っていない。仕方ないからネットで調べたものをざっくりとまとめると、大切な人との死別を経験した人の心をケアして、もう一度人生を歩んでいくことを助けること、と言ったところだろうか。もし雑にまとめ過ぎていたり、完全に違っていたりするようなら教えて欲しい。

 ここ一年、私はこのグリーフケアを必要としていたのだと思う。この言葉に出会って、自分の置かれた状況が言語化されたおかげで、事実として認識できるようになった。人は言葉にできないことを思考できない、と誰かが言っていたような気がするが、それに近いようなものだ。

 喪失に対する心の動きは人それぞれだと分かっている。ケロッとしている人もいるし、日常生活に支障が出るほど(例えば外出ができない、あるいはベッドから起き上がれないほど)無気力になる人もいるだろう。鬱になることもあるかも。

 私の場合を振り返ってみた。
 最初の数時間に心を支配していたのは衝撃だった。天地がひっくり返ったような。まるで現実のものではないような。真夜中に訃報に接した直後、慟哭と共に床にくずおれる自分を第三者の視点で記憶している。自分の心を肉体から切り離せば、痛みが和らぐとでも言うかのように。映画の主人公のようにふるまえば、すべてを虚構で済ませられるような気がして。
 深夜の訃報というのはなんとなく都合が良かった。自分の周りに誰もいなくて、人目を気にせずに泣けるから。ベッドの上で膝を抱えて微動だにしなくても、誰も咎めてこないから。誰にも声をかけて欲しくない。でも、誰かの声を聴きたい。矛盾した感情を抱えていた。
 これは夢なのだと言い聞かせれば、ふっと目が覚めるのではないか。そんな一縷の望みを、窓の外の暗闇の奥に見出そうとした。自分に嘘を吐こうと頑張った。
 足元に漂う少し冷えた空気を記憶している。夢じゃないことくらい、ちゃんと分かっていた。

 朝が来て、襲ってきたのは怒りだった。何事もなく進んでいく日常への。周囲を歩く人への。行き場のない怒りというのはこういうことか。目の前を歩いている他人の胸倉につかみかかりたくなった。自分の視界に入ってほしくなかった。声を聴きたくなかった。心が鋭いいばらをまとって、可愛く例えるならヤマアラシだった。そしてパンパンに膨れ上がった風船のように限界だった。苦しかった。
 とはいえ、義務教育を経て自分の中には立派な理性と道徳心が育っているわけで、それらがきちんと身体を支配していたから、実際に誰かにつかみかかることはなかった。別に魔法使いでもないので、時間が止まることもなく、日々が過ぎていった。

 そのあとは、不安定期だった。泣きながら目覚め、泣きながら誰かと話し、泣きながら眠った。ようやく気持ちが切り替わったと思ったら、些細なことで再び悲しみに引きずり込まれた。「死」という言葉に敏感になった。「生」という言葉も毛嫌いした。生死にかかわるすべてのことを排除したかった。
 視界からも。
 聴覚からも。

 そうすると、ある時に気づく。

 いろんなことを、忘れていっているのではないか。

 大切な人を喪うと、その人との思い出が薄れていく。そのことに気づいて、日々恐怖した。だって新たな思い出が作られることは金輪際ない。そして時の流れが、私の記憶から匂いや肌触りや温度を洗い流していくのに、私は抵抗する術を持たず立ち尽くすだけ。その事実に絶望していた。

 夜寝て、朝起きて、毎日を繰り返すのが怖くなった。あの人が最後に生きた日から、時間がどんどん経っていく。時計の針が刻まれる度、記憶を辿ることが難しくなる。生きていくのが怖くなった。

 現実逃避が必要だった。
 音楽を聴いた。死という言葉が入らない曲を。生きていることを賛美しない曲を。
 歌詞に意味を見出そうとした。人間は自分の都合の良いようにしか解釈しないから、ちょっとでも欲しい言葉を見つけたらそれに縋る。沢山の音楽に縋った。私は歌詞を深読みしたり独自の解釈を加えたりできるような評論家ではないので、単純に歌詞をそのまま拾うだけだが。

 ここでは一曲だけ紹介しておこうと思う。
 記憶を忘れてしまっても、それが消えるわけではないのだ。そう思わせてくれる曲に出会ったので。

 思い出が都合よく美化されることも、指先の間から零れ落ちていくことも、悪ではない。見つけられなくなっても、それが起きなかったことにはならないのだから。

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