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探し物は何ですか

2023年、最初の話題として、個人的な探し物の話を。

小さいころ―――たかだか20分程度の休み時間で一斉に教室を飛び出し、ある生徒群は我先に一輪車やら竹馬やらを手に取ってどれだけ上手に乗りこなせるかを友人と競争し、男子生徒の大部分と一部の運動神経抜群な女子生徒たちが運動場で過激なドッヂボールに興じていた頃——―(つまるところ小学校の中学年くらいの頃だが)、私は「正解」を追い求めていた。

あの頃の時間は、酷く緩慢だった。1週間は頑ななまでに終わろうとせず、「小学校」は我々の世界のすべてだった。

この世界で、我々に課せられていた最も重要なミッションは、クラスという社会の中で自分の立ち位置を慎重に構築し、下手を打たないようにすることだった。ヒエラルキー(当時はこんな言葉を知りもしなかったが)の下層に足を踏み入れないように。

ドッヂボールの球を投げる力が強い子は上位。だってチームを勝たせてくれるから。走るのが早い子も上位。だってリレーで勝てるから。学校は、勝ち負けに敏感だ。
「勝てば官軍負ければ賊軍」という言葉を思い出す。明治維新の志士に張り合おうかという情け容赦ない世界である。

スポーツができない子はどう戦うのか。
掃除洗濯ができたところで、(家庭では最強の戦力だろうが)学校のヒエラルキーには反映されない。料理、特にお菓子作りなら少しは戦えるかもしれないが、せいぜい年に1回のバレンタインデーで自慢するくらいしかないから効果は弱い。

スポーツができないなら、ずば抜けて頭が良いか、或いは先生に気に入られておけばよい。我々はそのことを自然と学んでいく。賢さで勝負するならテストはどの教科も毎回100点であること。「いい子」像で勝負するなら先生から大きなはなまるがもらえるような媚びた感想文を書くこと。

私はテスト用紙に間違いを記さないように気を付けた。感想を書くときには、先生の気持ちになって書いた。どんな文章なら、オトナが喜ぶか?過去の経験に基づけば、どんな言葉が先生の期待に沿うのか?逆にどんな文章は嫌われるのか?日々そうやって頭を絞るうちに、唯一無二の答えに縋るようになってしまった。レールを外れることは許されない。
気づいた時にはもう手遅れで、そこにいたのは、ルールの境界線さえ踏むことのできないクソ真面目な子供だった。ここでいう「真面目」という言葉は、もちろん悪い意味である。融通が利かず、他人の目が気になって仕方がない。

着ている服は、周りから浮いていないか?
これから買う本は、レジの人にバカにされないか?

服を選ぶとき、正解を探す。
本を買うとき、正解を探す。

道を歩くときさえ、正解を探している。道の歩き方の正解とは何だろう。颯爽と、肩で風を切ってモデルのように歩くのが正解なのか。最短経路を過たず歩くのが正解なのか。ならば、うつむき加減に歩いている私は、少し遠回りをしてしまった私は、人生の歩き方を間違えたのか。そんな疑問が浮かぶこともあったが、それでもなお、正解を追い求め続けた。

夢を探す時、正解を探した。
そんなものは、どこにも、存在しないのに。

ない物を探すのはつらい。どれだけ時間をかけても決して見つかるはずのない、正解の夢。見つからないから、オトナが褒めることを仕事にしようとした。将来は何を目指しているのと訊かれたときに、「凄いね、偉いね」という言葉が返ってくること―――つまり世界が大義と見なす仕事——―なら良いだろうと。我ながらいい考えだと思った。

世界が大義だと考える仕事にたどり着いて、ようやくその高みに立った。
ホッと一息ついて、辺りを見回して気づいた。

世界とは、私の周囲のことだったことに。小学生の頃、学校という閉じた空間が私の世界の全てだったように、夢を探す時に縋った世界もまた、閉じた小さな空間に過ぎなかった。

失望して、しゃがみ込み、また新たなことに気づく。

「私」が居ないことに。

正解を探すうちに忘れてしまっていた。どこに忘れてきてしまったのだろう。小学生の頃に忘れたのか。中学生の頃に忘れたのか。真っ暗闇に置き去りにされ、今頃泣いているんじゃないのか。

存在しない正解を探すことよりも、「私」の方が大切なはずなのに。どうして気づかなかったのだろう。どこに置いてきてしまったのだろう。

大事な大事な、「私」の手をどこかで離してしまっていたことに気づいた。置いていかないでと言う声が、ようやくこの耳に届いた。遅きに失したとは言わせない。今からでも間に合うはずだ。だってこの世に正解などないのだから。

2023年、私は「私」を探しに行きたい。

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