途中計算
「去りたいのです」と彼は言った。姿勢を正し、僅かに緊張した硬い声で。
博士はその両目に宿す光を微かに強くして、こちらを見つめ返すだけだった。
「……すみません」彼は眼光の意味を自身に対する不満と捉え、怖くなって謝罪した。その光は肯定でも否定でもないはずだったが、彼の世界では明らかな拒絶の意味を持っていた。
博士は、右の眉をくいっと上げた。
彼は目を泳がせた。ああ、気まずい。正しい答えが分からない。博士に黙って頷いてもらうだけで良いのに。
耐え難い沈黙に包まれる。詰問されている訳ではないのに、彼はジワジワと追い詰められているような心持ちだった。
「途中計算はなぜ必要なのか?」静寂を破り、博士が問う。
「……え?」彼は急に投げかけられた問いに困惑した。途中計算。なぜそれが重要なのだろう。
博士は立ち上がり、積み重ねられた本の柱を避けつつ壁面の黒板に向かった。そこに難解で長い数式を書く。そしてこう言った。
「答えはゼロになる」
「はぁ……僕には、全く分かりませんが」困惑したまま答える彼は、以前から数学が嫌いだった。
「答えだけ示されても困るものだ」博士は言った。
「それはそうですが、仮に途中計算があっても、これは僕には理解できないかも知れません」彼はどこまでも複雑な黒板の数式を見つめ、気弱な態度でしりすぼみに答える。
博士は彼の謙遜のような、あるいは自嘲のような答えに頓着することなくこう言った。
「君の世界の計算で出された答えには、その説明があって然るべきだろう」
彼は黙って続きを待った。
「君の世界では、ゼロを掛ければ全ては無に帰すのか?あるいは、視界に収まらないほど大きくなるのか?」博士の言葉で、彼はようやく答えを得た。
「バラバラになって留まります。僕は、もうその残骸を見なくて済むようになりたいのです」
博士は引き結んだ口元を緩めた。
「去り給え」
彼は微笑んだ。
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