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【読書日記】キネマの神様

「キネマの神様」原田マハ

志村けんさんが亡くなられて、一年。
志村さんが映画に出演、と言うことで話題になっていた「キネマの神様」。
もうすぐ映画公開ということで、テレビで目にしていたあらすじ。
それとは違うことに、読み始めて気が付く。
けれどもすぐに理解できる。
きっと山田洋次監督にとっての「キネマの神様」を描いたのだろう、と。

パチンコやカラオケやディズニーランドができるはるか昔から、映画館は「娯楽の殿堂」でありました。しかし小生、映画館とは、実は「娯楽の神殿」のようなところではないかと思います。あの場所は、一歩踏み込めば、異次元になる結界です。映画は神様への奉納物です。
小生は子どもの頃より、劇場のどこかで一緒に映画をみつめるキネマの神様の存在を、幾度となく感じたものです。この神様は、捧げられた映画を喜ぶというよりも、映画を観て人間が喜ぶのを楽しんでおられる。村の鎮守の神様と一緒です。神様に奉納される相撲や祭りを、結局いちばん楽しむのは人間なのです。それを神様はわかっておられるのです。
神様神様と書きはしましたが、小生はどちらかというと不信心な人間です。それでもときとして、なにか目には見えぬ力、人智を越えた存在を感じるときがあります。真実の名画に出合ったとき、その感じはことさら強いのです。

小説「キネマの神様」は映画の話でもあり、映画館を愛する人たちの話にとっての「キネマの神様」で、きっと映画は山田洋次監督のおもう、製作者にとっての「キネマの神様」を描いたのだろうなと。

あらすじ

主人公の歩は、40を前に勤めていた大手ディベロッパーを辞める。会社は都心に映画館複合施設を作る仕事をしていた。ちょうど同じ時、父が心臓を患い、倒れ入院する。さらに借金を抱えていることも発覚。父、円山郷直…通称ゴウちゃんは、大のギャンブル好き。昔から麻雀、競馬で借金を繰り返しては、家族に迷惑をかけていた。それでも、歩にとっては憎めない父であり、二人には共通の趣味、映画があった。週に何本も映画をみては、感想を書き溜めていた父。歩はその感想を書いた日誌に、自分も名画座で観た感想を付け加える。
父のギャンブル依存症を直さなければ…、早く仕事を見つけなければ…と思っていた矢先に、父がたまたま映画雑誌「映友」のブログに娘の感想を書き込み、それを編集長が目に留めて、歩は「映友」で働くことになる。さらには、父のブログの書き込みを面白いと言ってくれた編集長の息子の進言により、父・ゴウちゃんが映画の感想を書き込むコーナーができる。
また、そのコーナーがだんだん人気がで始めた頃、謎のアメリカ人から強烈な書き込みが。素人然としたゴウちゃんに対して、相手は明らかにプロのような、洗練された映画批評。二人はネット上で、「対決」のように映画論議を繰り返していく…。

父と娘の物語

ああ、この愛すべきゴウちゃんを志村けんさんが演じるところを観たかったなあ…と思わずにいられない。
「宵越しの金は持たない」と現金を持ったらすぐに使い果たし、麻雀、競馬で借金を繰り返しては、妻と娘に怒られ、友人はみんな去って行った。名画座支配人のテラシンは、ゴウちゃんを憎むことができず優しく見守ってくれている唯一無二の友人。
怒られて、凹んで、けれどもすぐに開き直って、不意に家を出て行き、叱られるのが嫌で隠れている。娘の出世が何よりの自慢で、映画館複合施設ができたら、タダで映画を観ようと思っていた。すぐに調子に乗って怒られる。
どうしようもないのに、愛さずにはいられない。
歩も、腹が立って仕方がないのに、父親を見捨てることができず、言葉少なく、それでも通じ合って映画について語り合う。
この映画が良かった。新しい映画は何を観たか。どれが良かったか。
私の父も、借金こそしないが、変わり者で母親は苦労させられているし、家族みんな「はあ…」とため息をつくことが多い。自論を曲げないし、勝手なことばかりする。
けれどもお父さんっこで育った私は、どうしても父を理解してしまう歩の気持ちがよくわかる。
こんな父親を、あの志村けんさんが演じてくれていたなら…思うほどに悔やまれる。

友情の話

ブログを通して、ゴウちゃんと謎のアメリカ人・ローズバッドが映画論議をかわす。ゴウちゃんは素人だけれど、優しく愛情を持って。ローズバッドは辛辣だけれど確かな映画の知識でゴウを優しく導きながら。やがて二人の間に、友情が芽生える。お互いリスペクトしている様子は、言葉の端端から伝わり、ブログを読んでいる人は、その二人のやりとりを優しく見守っている。
「硫黄島からの手紙」について、日本人とアメリカ人が語り合うところ。ゴウちゃんは戦争経験者。「この時代になって本当に良かった」と言う。その言葉には誰よりも重みがある。
ローズバッドの正体が分かってからも、二人の友情は続く。
八十を迎えてから、友情を紡ぐことができたのは「映画」というものがあったから。映画の力の大きさを改めて思う。決して通じ合えない、国境や言葉や歴史の壁をも乗り越えて、通じ合うことができる。それは韓国ドラマをいいという日本人がいたり、日本のアニメを面白いと言う中国人がいたり…そういう場面でも感じる。「文化」というものへの理解。
感情を揺さぶる、ということ。
言葉にできないことを映像に載せること。
音楽に気持ちを込めること
観ている風景に、同じ祈りを捧げること。
きっと、私たちは通じ合える、と思わせてくれる。
そういう力をいつも、持っている。

名画座について

この物語の重要なもう一つのキーワードが名画座。
それは、今、流行っている最新の映画ばかりではなく、昔の映画や、大きな映画館では上映されていないものをそこの映画館の支配人の采配で、一つかふたつを選び上映するところ。
歩は、名画座で「ニューシネマパラダイス」をみて、「映友」に勤めるきっかけとなる感想を書く。

幸福な映画を観た。「ニュー・シネマ・パラダイス」という名画だ。
DVDでもテレビ放映でもなく、都内にポツンと取り残された、時代遅れの名画座で観た。狭い、椅子の座り心地も悪い、音響設備も整っていない。売店にはポテトチップスとアイスモナカしか売っていない。前時代の遺跡のような映画館には、観客は数えるほどしか来ていなかった。
それでも映画が始まると、たちどころにひきこまれていった。
映画館というのは、そういう場所なのではないか。同じ時間と体験を共有する、わっと盛り上がってやがて静まるお祭りのような場所。私たちは最近、自宅で好きなときにいつでも観られる手軽さに慣れてしまってどうやらお祭りの感覚を忘れてしまっているようである。
とりわけ名画座は「昔ながらの村の鎮守」みたいな場所だ。こぢんまりと地味な、けれど実にいい空気の流れる場所。派手な神輿もイベントもないが、わたあめや冷えたラムネや金魚すくいが楽しめる。ちょっと気になるあの子が、浴衣姿でやってくる。短い夏の、胸が苦しくなるような懐かしさ。
名画は大輪の花火である。それを仕掛ける川辺が今、失われつつあることを私は惜しむ。

私は田舎の育ちで、お恥ずかしながら住んでいた町に映画館と言うものがなかった。映画は車で30分かけて隣町まで見にいく。その映画館すら小さな2つ3つしかシアターのないところで、流行りの映画、それも都会から少し遅れて確実に集客が見込めるようなものしか上映していなかった。
だから、名画座というようなものが存在しているということすら知らず、むしろテレビやDVDに恩恵を受けていた。テレビやDVDのおかげで映画を楽しむことができた人間だった。そんな人間でも名画座というものへの憧れを、胸に抱かせてくれる、そんな文章だった。

手軽に映画を楽しむことのできる、テレビやDVD、ネットには感謝は惜しまない。
けれど、確かに、映画館で見た映画の記憶は、鮮烈に頭に焼き付いている。
名画座じゃないけれど、映画館で見た映画というものは、一つ一つ心に残っている気がする。

初めての映画館の記憶は、満員で立ち見でみた映画。あれはどこで見たのだろう。
話の内容も覚えていないぐらいに小さかった気がする。
間違っていなければ「南極物語」だった。
背伸びをして、お父さんに抱っこをしてもらいながら観た。
内容は覚えていなくても、その熱気と父の興奮した様子は覚えている。

「ジュラシックパーク」を家族で見にいき、「面白い!」と大興奮して続けて観よう!と盛り上がって、2回続けて観た記憶。
シネコンじゃありえない。

その時の空気や、家族の笑顔まで、一つ一つが全て映画の思い出となっている。

名画座、というものにいってみたいなあ。
私が今住む地域にもシネコンしかない。
どこへ行けばあるんだろう。
行ってみたいなあ。
昔の名画を、名画座で、味わってみたい。
そう思わせてくれる、素敵な奇跡がたくさん起こる、小説だった。




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