南博
自称、ジャズピアアニストの南博の行状は、拙書「白鍵と黒鍵の間に」『鍵盤状のUSA」小学館 「マイ フーリッシュ ハート」扶桑社刊に書き表したが、今回は幼年期から青年期前の私の自伝的エッセイを中心に、音楽のこと、日々雑感、官能小説、政治批判、我がニホンの行く末など、なるべく濃い頻度で、音楽ファンのみならず、書き綴る所存でおります。
(私の自伝列伝の3からお読みください。) そう。しょうがなかったのだ。妹がこれ以上成長すると、団地住まいは無理となる。そして父親の選択もまんざらではなく、Y駅近辺を開発している三井不動産の確かさ、周りの学校の質の高さ、 ギリギリ会社まで1時間半で通える距離、などなどを総合すると、 街っ子の両親も、ここに居を構えるしかないと決断したのだろう。 しかし私は京王線で20分先に、飲み屋の親父を迎えに行く事が好きであった。「おおよく来たな。おう、わしの息子や」と店の板前に紹介され、酒
「あら、あの子上着を持たないで着替えにいったみたい」確かに大叔母が手にしているのは美春さんの着替えの一部であった。「ひろしちゃん、持っていってくれる?あなたの歳なら女子の着替え部屋に行ってもみんな可愛がってくれるわよ」私は少しプールの底で、またそれが増幅されたプールサイドでの視線からの妙な悦楽を、まだ感じたままであったので、その言葉にドキッとした。幼稚園児でも、更衣室では女性が水着を着替えていることは分かっていた。 恐る恐る更衣室に入っっていった。急に太陽光線が遮られ、女性
実は母も、子供の頃からピアノの音が好きで、ピアノが習いたかったらしいが、戦前にピアノを持っているのはある種のブルジョアで、決して貧しい家の出ではないが、学校のオルガンを触るのが精一杯だったようだ。しかし戦争が始まってしまった後は、そんな悠長な事も考えていられない世界に母も放り込まれたのである。 父は、私にピアノを習わせることに、当初から反対した。男の子は柔道か剣道を習わせた方が根性がつくといって譲らなかったそうだが、これも母が作戦をたて、ピアノを練習することが、いかに忍耐と
自称、南 博は如何にしてジャズピアニストと成りしや。 私は拙書「黒鍵と発見の間に」(小学館刊)にて青年期を、「鍵盤状のU SA」にて青年期最後の留学時におけるさまざまな出来事を、そいて「マイ・フーリッシュ•ハート」(扶桑社刊)にて帰国以来の壮年期を軸にした自伝的エッセイを書いてきた。今回は今まで書かなかった私の出生、出自から幼年期、青春期を描くことにしよう。 一応だが、我がWebsiteからの紹介文をここに掲載するが、その理由は、本文との内容との対比を少しでも楽しんでもら