見出し画像

天才コンプレックス「承」

高校生に入る前に真っ白なキャンパスは少し汚れようとしていた。


が、ボクシングを始めてから息を吹き返すように鮮やかな色を放つようになっていく。ボクシングを始めてから母に言われた言葉は”最近生き生きしてるな、前は魚の死んだ目してたで”だ。


中学3年の終わりから始めたボクシングによって僕は少し自信を付けていた。

画像1

更に、恩師と出会う


恩師、と簡単には言えない。僕の人生を変えてくれたと言っても過言では無い。


”川崎幹夫先生”(出会った頃63歳ぐらい)だ。三重県出身で学校の先生をしていた。川崎先生は今まで出会った人のなかでもとびきりの”天才”だと思った。


天才特有の早口で、普通の人が一歩ずつ話すのに対して川崎先生は5歩飛ばしで喋るから周りの人が何を言ってるか分からない事が多かった。僕も半分聞き取れれば良い方だった。僕の勝手イメージだけど。


とにかく底が見えないし面白い。裏表も無い。そしていつも楽しそうで生き生きしてる人だ。ボクシングの教え方でも大学生や今になって、「あ、あの時先生はこういうことを言ってたんだ」と気付くことがあった。


さらに、その当時自分を”現役”だと言っていた先生はほんとにかっこよかった。動きのキレが当時の僕よりも凄かった。よく和歌山で川崎先生の逸話も耳にした。


学校では”マッハ先生”と呼ばれている。後ろから話しかけたら殴られたなんて言っている僕の高校の先生もいた。どこどこで走っていたとよく耳にする。先生はよく、ライバルに見られないように隠れて練習しろと教えてくれた。走る時、手袋の中にはいつも少しの重りを持っていた。僕も真似していた。


先生の秀逸だと思った教え方がこれだ。「この練習はきついから皆んな途中でやめるんや、続けたのは誰々と、南出だけや」とよく僕に言ってくれた。そう言われると真面目な僕は続けたくなる。ちなみに10年以上そのメニューを続けている。チャンピオンになるまで辞められない。大学時代は練習がキツすぎて出来ない時期もあったが3.4年時は授業が少ない日に隠れて道場に一人で通っていた。今でも試合前は特にやらないと落ち着かない。


川崎先生と出会ってからが”本当のボクシングとの出会い”だったように思っている。


どんな時でも僕に期待してくれた。


簡単な事かもしれないが期待してくれる人が1人でもいるという事は、本当に力になる。”川崎先生は僕の目標であり尊敬する人だ”ちなみに川崎先生と野村先生は友達だった。そして聞く所によると野村先生は無口どころかカラオケが好きとか面白い方だと聞いた。人間分からないものだ。


画像2


そして、高校には和歌山県立和歌山東高等学校に進んだ


スカートの短さで全国屈指の強豪校だ。


他にも剣道やフェンシングも強かった。ボクシング部は無かったがジムに所属し高校の名前を借りてアマチュアの試合には出場出来ることになった。


東高校はお世辞にも偏差値の高い学校ではなかった。


声を大にして”当時は”ヤンチャな生徒も結構いた。トイレの前には男も女も座り込んでタバコを吸っている生徒もいたようないてなかったような…。


留年する者や辞める者も多かった。中学2年生で勉強の止まってしまった僕も行ける高校は少なかった。仕方なく自転車で片道40分掛かるこの東高校を選んだという訳だ。


補足しておく。今では野球が強いで有名な高校になっている。県大会でもベスト4に入っている。そのうち甲子園での活躍が見れるのを楽しみにしている。

画像3



さて、高校生活が始まった


クラスに可愛い女の子は…2人…3人ぐらい。ヤンキーは少なめ。オタクが結構いるな。そう、オタクは結構勉強が出来ない。当たり前だ。ゲームばっかりしてるんだから。


でも僕は誰とでも仲良く出来た。ボクシングをしていると珍しがられた。女の子にモテた記憶はない。が、クラスの男は大体普通に仲が良かった。オタクだからといって当然僕には偏見は無いし(自分がそうだから)ヤンキーとも普通に話しが出来た。ボクシングに興味を持ってくれていたからだ。


ボクシングはメジャーな競技の割に人口が少ないから珍しがられる。留年していたミキヤ君も仲良くしてくれた。自分で言うのもなんだがそういう存在がいるとクラスが和む…。


こうやって誰にも分け隔てなく接することが出来るのは自分の好きな所だ。ちなみに僕の奥さんはタイ人だ。今では国境や肌の色すら僕にとっては大した話しではなくなっている。肌の色が黒いだけで強いと思う必要はない。ボクシングでも同じだ。



でも高校生活での思い出はやっぱりボクシングだ。目標を持ってスタートした。”全国大会優勝”それも、何回出来るかぐらい考えていた。(インターハイ、国体、選抜、と3つの全国大会がある。3年間で合計8つの全国大会となる。3年生は選抜には出場出来ない。)



早速、一年生の5月頃にインターハイの県予選があった。


和歌山県は競技人口が少なく予選に勝たなくてもインターハイに出場出来る階級があるくらいだ。


眼中になかった。


しかし、その時のフライ級トーナメント表には僕を入れて3名の出場者があった。


僕は一回戦があった。ボクシングデビュー戦だ。対戦相手の名前に見覚えがあった。山本樹喜也…。変わった名前だったから覚えていた。空手をやっていた小学校2.3年生の頃に他の道場だったが組み手をする機会があった。僕はあまり覚えて無かったが当時は「歯が立たなかった」と樹喜也は覚えていた。そして、高校生になり再会した。


画像4


…結果は僕の判定負けだった。



”全国優勝を目標にしていた自信家の高校生はボクシング弱小県の県予選一回戦で敗れる”


これは僕の初めての挫折だった。


樹喜也は空手を辞めてキックボクシングを頑張っていた。僕が空手を嫌になってから遊んでいた間も…。


その1ヶ月後に今度は国体の和歌山予選があった。死に物狂いで練習し、何とかギリギリの判定勝ちで樹喜也にリベンジを果たした。その後、樹喜也とは階級が一つ変わり対戦する事もなくなり仲良くなった。


お互い親が格闘技に関して厳しかったのを分かっていたし、僕の曖昧な記憶では陸上競技をやっていた時も山本樹喜也の名前を見かけた気がする。良いライバル関係だった。ライバルの存在は自分の成長を助けてくれる。そしてチーム和歌山として一緒に遠征や合宿などにも出掛けるようになる。


画像5

和歌山県は2015年に和歌山国体を控えていた。その為補助金などがあり、こういった遠征や合宿に行かせてもらう機会が多かった。これは僕にどうする事も出来ない”運”だ。


僕はこういった事を”強くなるチャンス”と呼んでいる。


これは例外なく沢山練習する者が掴む。


”強い選手のスパーリング相手に呼ばれる”、”代表合宿に呼ばれる”、”沢山試合をする”、”強い人や自分を高めてくれる人に出会う”、”怪我をする”、


全て強くなる為のチャンスだ。


そして、僕は多くのチャンスを掴んでいく。


一つ最低条件がある。”諦めないことだ”。



時を戻そう。高校生活は映えるような事はたいして無かった。マラソン大会で2連覇したぐらいだ。

画像6

画像7


(3年生は任意の参加だから不参加)毎朝走っていたから当たり前だ。ちなみに高校2年生の時のボクシング以外の記憶が一切ない。



ボクシングの方は2年に上がり初めて夏のインターハイに出場した。新潟県だった。
高校ボクシング最高峰の舞台。


その直近の近畿大会で優勝して僕は例によって自信を付けていた。もちろん近畿のチャンピオンがそのまま全国でチャンピオンになる事も多かったからだ。
写真はわかやま新報に載せていただいものだ。


画像8


…結果は一回戦敗退
相手は斎藤奨司選手。一つ上の学年で名門、千葉県の習志野高校の選手だった。その大会でもベスト4ぐらいまで勝ち進んでいた選手だった。


画像9

(最近行った焼き肉屋、「焼肉はるくん」に飾ってあった。)
なかなか結果が出せない自分に苛立ちや葛藤があった。


でも、何とか理由を付けて、自分に言い訳しながら腐らず練習を続けた。相手はベスト4まで進んだ、チャンピオンとも実力は変わらない、次やれば勝てる、と。



その後も相変わらず友達と遊ぶ事もなく練習ばかりしていた。柔軟な考えが出来ない凝り固まった頭になったのはこの時だろう。



練習を休む事もなかった。ストレスが一切なかったから当然だ。実家で何不自由なく暮らして好きなボクシングをしていた、バイトもやったことはない。


学食は学校での唯一の楽しみだった。
毎授業終わると通っていた。
東高校には当時、暗黙の了解があった。



学食を販売している真ん中にある長テーブルにはお昼になると最高学年の女のヤンキーグループが溜まっていた。僕は初めそれを知らずに何食わぬ顔でご飯を食べていた。


すると例のヤンキー女グループがやってきて僕の後ろで舌打ちをした。その時ばかりはビビって黙ってその場をあとにした。それからも真ん中はしっかり空けておいた。やっぱりヤンキーの女は当時唯一苦手だった。スカートは短かった。


そうこうしているうちに進路の話しになっていた。


これも”運”だが、僕は高校時代に一度全国大会で準優勝をしている。


失礼かもしれないが全国で活躍していたような選手と決勝戦まで当たらなかった。そして決勝戦では人生初の1R.RSC負け。(プロで言うところのTKO負け)東京の同じ年齢の中野という選手だった。帝拳ジムという日本のボクシングジム1番の大手ジム所属の選手だった。


左ストレートが見えなかった…。


この時も「全然効いていなかった、レフェリーが試合を止めるのが早過ぎた」と言い訳して次の日から練習していた。言い訳が全て悪いとは限らないと今になって思う。


その成績があって関西の大学からよく声が掛かるようになった。その中に駒澤大学という駅伝で有名な東京の大学があった。


ボクシングも1部リーグだった。しかも当時は有名な選手が全国からこの関東1部リーグに集まっていた。アマチュアでチャンピオンになれなかった悔しさはもちろん、田舎もんの僕が東京の大学…。何か人生が変わるんじゃないかぐらい壮大な希望を持って駒澤大学への進学を決める。


もうその頃から今まで10年以上、僕の頭の中はボクシング一色だ。ボクシングのことしかやっていない。普通の高校生が分からないレベルだ。高校の友達と遊んだ記憶がほとんど無い・・・。一度たこ焼きパーティーに呼んでもらった事がある。ボクシングを始めてからは地元の友達と遊ぶこともほとんどなくなっていった。


僕のキャンパスはボクシング”一色”となった。





                 …続く。


それと、高校3年間お世話になった上野先生に感謝の気持ちを伝えたい。

上野先生は放送部の顧問をされていた。高校ボクシングでは必ず高校の先生が付き添いしなければならない。部活がある高校は苦労しないが(部活動の先生方は休みが無いはずだから大変か)東高校では僕の為に毎試合付き添いをしてくれた。

トーナメントの付き添いの先生は、近畿大会は最低3日間、全国大会では1週間ほど拘束される訳だ。高校でボクシングをしたいと言った時正直、東高校には良い顔をされなかった。これから野球やスポーツで学校の評判を上げたい学校にはボクシングはイメージが悪く見えたかもしれない。こうやって先生が何日も拘束されるというのは当時の僕は理解していなかった。

それでも上野先生は一切嫌な顔をしなかったし、むしろ「南出のおかげで…」と感謝してくれた。

僕が学校をサボっていると「今からでも来なさい」と優しく指導してくれた。挨拶等を僕は空手や柔道という「道」と付くスポーツをしていたのもあって普通に出来た。だから僕の評判は高校の中では良い方だった。上野先生を初め、先生方には感謝しています。全国大会に出場すれば大きな垂れ幕なんかも作って学校の見えやすい所に飾ってくれた。和歌山県立和歌山東高等学校様、ありがとうございました。

画像10



#ボクシング #プロボクサー

                 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?