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天才コンプレックス「転」前編

起承転結の「転」の部分はメインとなる盛り上がる部分だそうだ。書きたかったし、わくわくしていたぐらいだ。僕の基盤となる部分を作ったと言っても過言ではない。4年間のストーリー、大学生時代だ。南出が南出に成る。



”僕は天井を見上げた。体感時間にして3秒、少しの間がありアナウンスが響き渡る。「…青コーナー、中野幹士君」
アマチュアボクシング最後の試合、判定で僕は敗れた。僕は7年間、一つの目標も達成出来ずに一つの物語に幕を閉じる。アマチュアボクシングを終えた。”




アマチュアボクシング最高峰はオリンピック、日本の最高峰は”全日本選手権”だ。インターハイ、国体、社会人選手権、これら全ての上位互換にあたる。全日本選手権での優勝こそが日本アマチュアボクシングの最強を示す。


大学に進学するということは、そこを目指すということだ。


高校での全国優勝を逃したことから大学進学を決めた。


それに最終的な目標はずっと変わらず「プロで世界チャンピオン」だった。ある日、母親が見せてくれた1枚の紙切れがあった。小学校4年生ぐらいの時に書いた将来の夢に「ボクシングの世界チャンピオン」と書いてあった。


ボクシングを始めたのは中学3年生。空手をやっていた頃、何も考えていなかったけど当時家では、テレビでボクシング、K1やPRIDEを見ていた。格闘技のテレビは全て見ていたけど、やっぱり”ボクシングに縁があった”


長谷川穂積選手や亀田興毅選手が活躍していた頃だ。そして世界チャンピオンになる為に大学に進学した。卒業してから思うことだけど、大学でのボクシング4年間は普通の倍以上の経験が積めたと思っている。その少し前ぐらいから大卒世界チャンピオンが増え始めていたというのもあり、



僕は駒澤大学という大学に進学する



昔から正月はおじいちゃんおばあちゃんの家で過ごすのが僕の一年の初めのルーティーンだ。そしてスポーツ好きのおじいちゃんと2人でテレビに並んでニューイヤー駅伝を見る。そこでいつも目にしていたのが駒澤大学だ。


紫色が印象的で記憶に残っていた。駒澤大学への進学は身内や東高校の先生達も喜んでくれた。和歌山の田舎もんの何の取り柄も無かった人間が東京の有名な大学に進学出来たのだから。


高校生の頃に遠征で2度この駒澤大学に訪れた事があった。現在、東京オリンピック日本代表に選出されている田中亮明さんとスパーリングさせてもらったのを覚えている。


同じ階級の選手にあれだけ手加減されたのは、その時が初めてだった。


当時の駒澤大学は軽量級に強い選手が沢山いた。重量級の先輩すみません、そういう意味じゃないです。


1学年上に金中竜児、国体チャンピオン。その上に田中亮明、日本代表。更にその上に、林田翔太、アジア選手権銅メダリスト。それに僕のように高校時代に2位になっている無名の強い先輩達が沢山いた。


とんでもない所に来てしまった。が、それをこそ求めていた。和歌山県はボクシング不毛の地で練習相手も多くはなかった。だから軽量級の強い選手が多い所に行きたいと思っていた。


入学する少し前の冬、駒澤大学にて面接と実技の試験があった。落ちることは無い。1人で東京に行くのは初めてだった。東高校の上野先生はA4の用紙5枚ぐらいに事細かに行き方を説明してくれた。どこで乗って、ここでは指定席に座っていてもいいよ、ここで降りて…。過保護なぐらい優しかった。面接の練習にも沢山付き合ってくれた。



そして試験では大学生を相手にスパーリングや基本動作の確認が行われる。大学3トップが見守る中…。OB会長の中島成雄(WBCライトフライ級の世界王者)監督の小山田裕二(インターハイ優勝、全日本選手権準優勝)コーチの林田太郎(全日本選手権3連覇)、もちろん全員駒澤大学OBだ。


無事に合格し3月から早速、大学の寮に入った。部員35名程が2人部屋もしくは3人部屋に暮らす。僕が入った1.2年目はご飯を5人グループの班に分かれて自分達で作っていた。風呂は少し大きめの浴槽が一つとシャワーが4つ。トイレが1階と2階にあり、食堂にはテレビが置かれている。集合がかかるとここに集まる。

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人生初の寮生活が始まった。同部屋は大阪の永江先輩。永江''くん''と呼んでいた。(写真の帽子の方だ)ボクシング部では君付けは基本的に禁止だ。それを知らなくて始めの頃は「ジャニーズじゃねえんだよ」って怒られた。


1学年上の大阪出身で高校の頃から近畿大会などで顔見知りになっていた。初めて他県の先輩で声を掛けてくれた人で優しい人だった。階級も1番小さいライトフライ級で身長も小さい。ラッキーっと思った。(こんな事を書けるのも永江君の器の大きさあってだ)


寮に入る前に心配していたのは「大学の部活なんかイジメとかもあるのかな…」と考えていたからだ。


永江くんだったら余裕だなと思っていら案の定余裕だった。よく喋る人でうるさくて眠れない時に僕からキレたこともあった。


大学での単位の取り方や通称''楽単''と言われる楽に単位を取れる授業なんかも教えてくれた。同じ経済学部商学科だった。はっきり言って授業や大学の思い出なんかは一つもない。先に言っとくが大学の友達は1人もいない。失礼かもしれないが、部活をやっていない普通の生徒を僕たちは一般生と呼んでいた。


当然今から思えば沢山の友達を作り人脈を作っておくのが正解とは言わないが、その方が良かったと思う。単位を取るのにしたって友達が沢山いる先輩はほとんど授業には出ていなかった。友達にノートの写真を送ってもらったり…これ以上はやめとこう。


僕の性格上、上手く立ち回ることは出来なかったしボクシング以外の事にエネルギーを使うのも嫌だった。


めんどくさかった。だから授業には毎回1人で出ていた。(途中で練習のきつさからサボるようにもなり、4年生最後まで学校に通うことになった。)


朝練が終わって夕方の練習まで一言も口を開けていなかったなんて日もよくあった。



そして、3月に入学して早速1週間程すると毎年恒例の合宿に行くことになる。


”地獄の合宿”だ


1.2年の頃は静岡県の伊東というところだ。旅館、「はるひら丸」の目の前には砂浜が広がっている。そう、走れということだ。

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基本的に大学の朝練は毎日競争。通称’’ジムっ子''(高校ボクシング部ではない普通のボクシングジム出身)の僕は毎日1人で走っていたから自分のペースだし休みたい日は休めた。


朝練は毎日辛かった。


高校のマラソン大会で2連覇していた僕も全く敵わなかった。合宿では今までの「お客様期間」が一気に無くなり急に厳しくなる。「声を出せ」耳に穴が空くぐらい言われた。先輩たちから一年生が怒鳴られる。「お前ら全然出してねえだろ」と心の中で思いながら1、2、3、4、 5!.6!.7!.8!と声をひしったのを覚えてる。

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(写真は合宿中の一つ上の先輩達と。)

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同期を紹介しとこう。沖島兄弟、双子の2人ともチャンピオン、福岡県東福岡高校、ボクシングの名門だ。


牧野は静岡出身、面白い奴だったが警察官になった。


坂本、神間は栃木出身。2人とも弱かったけど良い奴らだった。


盾は岐阜の中京高校、ボクシングの名門で同期の中で1番まとも?でしっかりした奴だった。


斎藤も千葉県の習志野高校でこれまた名門だ。初めは無口な奴だったけどお酒を飲むと人が変わったようによく喋る奴だった。習志野高校は世界チャンピオンを何人も輩出している。


あとは僕とフミヤだ。フミヤはその練習のきつさから3ヶ月ほどで大学を辞めてしまった。留年する者や辞めてしまう者も多かった。



何とか合宿を乗り越えるとすぐに”大学リーグ戦”の準備に入る。


リーグ戦は僕たち大学生にとって”青春”だ。こんなに熱くなり感動するものは他には無いと言い切る。


1日3部練。3回練習するということだ。


全てが初めての経験で、対人練習のマスボクシングは、ほぼ普通に当てるし効かせる。…強く当てるということだ。


和歌山県に居た時は遠征に出だ時以外でマスボクシングすらやったことがなかった。それが毎日9Rあった。終わった後に皆んなでバック連打。嫌でもスタミナはつくし強くなっていった。


皆んなで練習をすると頑張れる。周りはライバルだった。筋肉もすぐについて身体は大きくなっていった。とにかく頑張ってついていった。身体能力的にはそんなに劣ることはないと感じたが技術は全く通用しなかった。


二つ上のナラ先輩のジャブは一年生の頃全く''見えなかった''。表現でも何でもなくてとんでもなく速くてモーションが全くないから見えなかった

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ナラ先輩も高校の頃インターハイで準優勝していた紛れもない天才だ。はっきり言って練習をそんなに頑張るような先輩ではなかった。趣味はパチンコで、パチンコ8割、いや9割、ボクシング1割ぐらいの人だった。走るのもいつも1番遅かった。それでも喋ると優しくて悪いことや厳しいことを言われたこともない。大好きな先輩だ。


更に一年生でいきなり壁にぶつかった。



”田中亮明恐怖症”だ。当時、3年生の亮明さんは化け物みたいに強かった。

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道場にいると空気がピリッとしていたし、あの人のオーラは紫色だ。怖かった。あまり後輩に対して口数も多くなかったし、マスボクシングで倒しにくる。(もう一度言っとくが当時)実際、僕は記憶も飛んだことがある。


大学の練習では他にも記憶が飛んだ奴を見た、僕もそうだったがとりあえず正気に戻ると「おはようございます」と言ってしまう。2週間ほど顎が痛いと言ってマスボクシングだけ休んだ。


亮明先輩はピンポイントで顎にパンチを当てる技術はピカイチで上手かった。これは僕の表現だけど金属バットで殴られているみたいに拳が硬い。※金属バットで殴られたことはない。


乗り越えた方法は、開き直りと怒りだ。だんだん腹が立ってきた。「なんでこんなにやられるんだ」「同じ人間だろ」練習ではなくケンカだと思って立ち向かった。


意外とやれる、と思ってから恐怖症は克服した。当然ボクシングで勝てるとは到底思わなかった。でもボクシングでは、まずこの恐怖に打ち勝たなくては話しにならない。


そうこうしていると早速リーグ戦の選考スパーリングが行われた。


僕、林田翔太、田中亮明、金中竜児の4人でスパーリングを回す。誰1人にも1発もパンチが当たらなかった。1年時、当然リーグ戦には1回も出られなかった。同期の沖島や斎藤が出場していただけに悔しかった。



夏にリーグ戦が終わって一息つく間も無く個人戦が始まる。夏休みは1ヶ月ほど地元和歌山に帰って地元の予選に参加する。国体の予選で近畿大会に出場した。1学年上のライバル校の東京農業大学の山内涼太選手に敗れた。(現在プロでWBA世界2位の位置にいる)


大学生のデビュー戦も負けスタートだった。普通はこのまま1年生を終えるはずだが僕は1年生の11月から全日本選手権に出場する事になる。次の年に地元国体を控えている県はテスト大会として前年に全日本選手権を行う。その大会には地元選手は予選無しの無条件で出場することが出来る。



いきなりアマチュア最高峰の全日本選手権出場に心が躍動していた。


トーナメント表を見てみると一回戦の相手は東江選手。あがりえ、と読む。
九州ブロック大会で優勝し予選を通過していた4年生の実力者だった。


それでも僕の心境は、”負けたらボクシングを辞めよう”と本気で考えていた。


高校でも優勝出来ず、リーグ戦にも出られない、大学デビュー戦でも負け。更に高校のインターハイで負け、その次の国体予選では怪我もあったが年下の選手に負けてここまで3連敗していた。僕は完全に自信を無くしていた


結果は判定勝ちだった。何とか踏みとどまれた。続く2回戦で敗れてしまったが、相手は高校2冠のチャンピオン金澤選手だった。負けはしたがポテンシャルを見せることができた。自分の中で互角以上の試合をする事ができたと思えた。
こうして1年目を終えた。



2年目は飛躍の年となる。



自分達と同じように1年生が9人入ってきた。活きのいいやつらが入ってくる。僕も上下関係のようなものを全く知らなかった。敬語が使えるだけだ。ほとんど1年生なんて初めは生意気だ。先輩に「俺」とか言ってる奴もいた。


全国から”我”の塊のような奴らが集まるボクシング部に常識なんて存在しない


新一年生は有望な選手が多かった。高校時代に輝かしい成績を残している選手はだいたい生意気だ。でも彼等も全員と言っていいほど挫折する。同期の沖島兄弟も我の強い尖った性格だった。でも弟の輝とは気が合って大学時代よく一緒にいた。


(輝と翼)彼等でさえ、なかなか勝てずに悩んでいた。いや、悩んでる暇もないぐらい沢山練習していた。見てるこっちが気持ち悪くなるぐらい練習していた。


同期だし階級は違えど僕にはライバル意識があった。大学生には特待生という学費免除の選手が毎年2人入ってくる。その2人が沖島兄弟だった。僕は普通の推薦、だから負けたくなかった。翼は運動神経が良くボクシングのセンスもピカイチだった。


更に、輝は僕より練習する。ボクシングも好きだ。ボクシングの動画もずっと見ていたし、ずっとボクシングの話をしていた。自分よりもボクシングに情熱のある人間だった。悔しくて朝練終わりに僕は更に走りにいこうとしていたら輝もついてきた。これじゃあ意味ねぇんだよ、と思いながら仲良く走っていた時もある。
あ、後ディズニーが大好きでもう1人誰かを連れて3人で行ったこともある。

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そして、例の如く合宿をくぐり抜けてリーグ戦の準備に入る。先輩の怪我とかもあったが僕はリーグ戦に5戦の内(6大学で行われる。最下位は2部の優勝校と争い、勝った方が一部リーグに)4戦出場する事が出来た。

関東一部リーグは、スター選手の出場するアマチュアボクサーにとって憧れの舞台だ。

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(この「あらぶるジャケット」を着るのが憧れだった。)
ここでの活躍がその年の個人戦にも響く。


場所は聖地、後楽園ホール。リングはいつものリングと違ってバイーン、バイーンとよく跳ねる。リングのマットが少し緩い。照明も明るい。


何より応援が凄い。(これは一度見にきてもらいたい。チケットもプロより安く2000円。)リーグ戦の醍醐味とも言える。


レギュラーになれなかった選手は応援の練習をする。もちろん悔しい。でも押し殺せる。
皆んな同じように厳しい練習を乗り越えた仲間だから。カッコいい先輩達だし、可愛い後輩だ。


2年目の結果は2勝2敗。


監督には1年生の頃からよく怒られていた。2年生になってもボロカスに言われていた。大学生はプロジムの選手に呼ばれてスパーリングをすることがある。交通費代としてお小遣いが貰える。5千円か1万円。


ボクシング部はバイトは禁止だったしそんな余裕は僕にはなく、スパーリングに呼ばれるのは嬉しかった。


毎月の寮費や生活費を毎月10万円の奨学金で賄っていた。学費は親が払ってくれたし遊ぶ暇もそんなになかったからお金に困ることはなかった。


そんなプロとのスパーリングで井上拓真選手とスパーリングをすることがあった。


高校時代から有名だったしチャンピオン。その頃もプロで無敗、世界チャンピオンに手を掛けようとしていた。内容はそんなに悪いと思わなかったけど付き添いの監督にはボロカスに怒られた。大橋ジムで泣いた。それから監督への反骨精神が作られていった


今だから分かるけど僕は期待されていた。4年生ぐらいになると監督ともフレンドリーに話せるようになった。冗談混じりだが、”モノが違う”という言葉をかけられた事がある。認められた気がして嬉しかった。それまでは監督を見返すために頑張った…。



監督もインターハイではチャンピオンになっているが全日本選手権では準優勝で何回も準優勝に終わっていたそうだ。僕も通算4度の準優勝、同じシルバーコレクターだった。
監督が厳しくしてる選手はやっぱりよく伸びた。長谷部っていう後輩も沢山怒られてたけどよく伸びた。監督はよく選手を見てくれていた。




その後の2年生時の個人戦は待ちに待った地元和歌山国体だ


国体は面白いことがあり、地元都道府県が総合優勝する為に他県から強い選手を呼んでいる。(県庁等に勤めてもらい、和歌山県所属の選手になってもらう。)

おかしな話しだ。

でもそのおかげで僕は成長する。


米澤良治先生は東京農業大学出身で世話焼きな方でよくボクシングも教えてくれた大学4年間で鍛えられた技術を惜しげもなく親切に教えてくれた。


更に、僕が大学1年時の4年生、林田翔太先輩も和歌山に来てくれた今でも和歌山で暮らしているしよく連絡もくれる。


そして、もう1人レジェンド、星 大二郎だ米澤先生と同じ農大で米澤先生の先輩だ。村田諒太らと同じ世代で、僕はこの名前に高校生の頃から聞き覚えがあった。


和歌山の頃にいたジムのアマチュアボクシングが大好きな岡本先生がDVDを沢山くれた。そのDVDの一枚に「左のテクニシャン 星 大二郎」と書かれていた。この名前に名前負けしない華があってオーラとカリスマのある人だ。試合にも華があって見ていて面白いし、やっぱりほんとに強かった。


…ここまで持ち上げれば大丈夫かな。星さんはよく僕をいじってきた。捉える側がイジメと思えばイジメだ…。笑←しっかり”笑”をつけておこう。



ダメなスパーリングをすれば「お前もうボクシングやめた方がいい」「お前より樹喜也(天才コンプレックス「起」登場)が和歌山国体に出た方がいい」、試合で負けて泣いてたらスマホで動画を撮られていた。僕もちょっとキレ返したりしてた。


僕にはいじられるセンスがあった。それに星さんはいじるのが上手い。


プロいじられイヤーの僕には分かる…。


何人もの選手が犠牲になってきたという事を。


よく僕も後輩をいじるようになったけど皆んな全然だめ。打ちごたえのあるサンドバッグになって、良い音をならさなくてはいけない。キレて無視してくる後輩なんかも今時は出てきた。サンドバッグだったら他のに変えてしまう。星さんは優しかった…


ずっと僕をいじってくれた。


星さんは他にもよく大学時代や日本代表時代の厳しかった練習や合宿、有名な選手との笑い話をしてくれた。僕はそれが大好きだったし、それらを経験してる星さんを尊敬するようになっていた。こんなに''面白い人''がいるんだなと思った。



2015年、紀の国わかやま国体が開催された。


リーグ戦で2勝2敗。はっきり言って全く期待もされていなかった。


トーナメント表が大きく貼り出される。


一回戦の相手は昨年度の国体チャンピオン、小林将也選手。当時大学日本一の日本大学の選手


一つ年上で新潟出身。近距離でのファイトを得意とするファイタータイプで有名な選手だった。トーナメント表を見た瞬間の周りの反応はあからさまだった。「お…仁、いけるぞ」嘘つけ。「頑張れ」とか、星さん笑いながら「お疲れさん!」と言われた。


でも”僕は正直チャンス”だと思った。”一回戦ならチャンスあるな”。チャンピオン相手に無名が驚くような試合をすれば評価してもらえると。さらにそれが一回戦なら、なおインパクトがあると思った。


試合が始まると夢中だったから覚えてないけど正面から小林選手と打ち合った。技術は負けていた。1Rでカウンターの左をもらって僕は少し効いてしまったが、小林選手は追撃してくるどころかニヤっと笑っていた。

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(OB会長の中島成雄会長もこの試合を評価してくれて大きなパネルを作ってくれた)

逆に不気味で試合中に怖さを覚えたのはあの試合が最初で最後だ。


試合結果は僅差の判定勝ちだった。


地元和歌山の大声援もあったし、審判も人間だ。地元和歌山の選手が良い試合をして勝ちにしたくなったのかもしれない。


僕はその勢いのまま2、3回戦を順当に勝ち進み決勝戦に進出した。決勝戦では奈良県の中嶋一輝選手に敗れた


それでも、僕はこの大会で殻を破った。なかなか勝てなかった自分がチャンピオンクラスに勝てたこと、全国大会(成年の部)で準優勝したこと、来年は優勝だ、と思たことで自信を付けていた。こうして2年生を終えた。




3年生は起承転結で言えば「転」の年。



2年生で付けた自信が裏目に出ていた。そう、伸び悩んでいた。なかなか同じ階級の先輩である金中先輩には勝てない

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(結局、金中さんが引退するまでマスボクシングでもスパーリングでも一度も勝たせてくれなかった。同じ階級なのによく一緒に遊んでくれた。原宿とかのオシャレなお店を教えてれたりもした。強かった。大好きな先輩だ。)



後輩達も伸びてきている、練習しても怪我や体調不良が多くなっていた。寝れない日も続いた。更に体調は悪くなるばかりでヘルペスや下痢、頭に発疹が出来たりしていた。朝起き上がると目眩がしていた。あの頃の僕は少し鬱気味だった。


・・・キャンパスは全体灰色。何も写っていない。



たまに僕は相談を受ける事があった。後輩やそんなに連絡をとってなかった友達。その友達は鬱病で薬を大量に飲んで死にかけたと聞いた。そして僕には同じ匂いがすると言われた。
僕はメンタルが弱かった。




”もうボクシングを辞めよう。”




和歌山に帰る準備をしてほんとに帰った。
兄に電話して辞める事を伝えた。


何を話したかは覚えていない、兄はすぐに僕のことなら、と川崎先生(天才コンプレックス「起」に登場)に連絡してくれていたみたいだ。その後、川崎先生と電話で話をした。
話したのはほんの数分だったと思う。
掛けられた言葉はたった一言。



「ここがお前の勝負所なんじゃないか?」



僕は「頑張ります」と答えていた。・・・泣いていたな。



ちなみに「頑張る」の言葉の意味は、困難にめげずに耐え抜くこと、だ。


さっきまで辞めようと本気で思っていた人間が。今まで川崎先生に怒られたことはない。


その時も怒られたわけじゃないけど、川崎先生にそう言われると、もうちょっと頑張ってみようと思えた。格闘技のトレーナーと選手の信頼関係は凄く大事だと思えた。


…違うか。”人間関係は凄く大事なんだ。”


その時にもう1人助けてくれた人がいた。


林田太郎コーチだ。


監督やOB会長の2人は年も離れていたが太郎コーチは年が近く選手寄りの位置にいてくれた。例によって僕をよくいじってくれる''先輩''という感じもあった。


何でも話せた。太郎コーチ自身も相談役のような位置にいる事を理解していたんだと思う。それからよくボクシングの方も指導を仰ぐようになった。


元々、あの井上尚弥や井岡一翔、寺地拳四朗(全員現役世界チャンピオン)にアマチュア時代勝利している知る人ぞ知るアマチュア界のレジェンドだ。


教え方も自分には合っていたと思う。ボクシングを教える例え話しによくドラクエが登場する。ハリウッドザコシショウばりの誇張モノマネで教える僕の弱点は分かりやすくて定評がある。



そうして僕は例の地獄の合宿、”前日”に寮に戻った。


合宿が終わってから寮に戻れば良いものだが、やっぱり僕は真面目だし茨の道を行かねばと。


男は一生修行だ。


当然僕は強くなっていないし何も変わっていなかった。


ただ、和歌山に帰っただけだ。でも自分の気持ちや考え方は変えられた。
そしてリーグ戦まで過酷な練習を乗り越える事が出来た。


体の動きやパワー、スタミナ、スピード、どれをとっても今までとは比べ物にならない程強くなっていた。


僕はバンタム級の正真正銘のレギュラーに選ばれた。



リーグ初戦は東洋大学、ライバル校だ。
1ラウンド目のゴングが鳴った。30秒しないぐらいで僕の右目上から血が止まらない程出てきた。ドクターは顔を横に振った。試合終了、僕の負けだった。全てが理解できなかった。


(「起」の章から読んでくれている方はもうお気づきだろうか、お馴染みのパターンだ。)



病院に直行だった。知らないおじさんが車で病院まで連れってくれた。少し落ち着いてから、「すみません、誰ですか?」
「太郎の父です」
あの時はありがとうございました、、、。


相変わらず僕のキャンパスはボクシング一色。一度灰色の入ったキャンパスには陰影がつけられると言っておこうか、鮮明で色濃く、壮大なスケールで描かれるようになってきた。負けても、傷ついても、進んでいる。僕のキャンパスには色がつく。消えていくことはない。周りの目から消える事があったとしても、自分が色を足していればいつか良い作品になるかもしれない。





                  続く。

まだ「転」の章は全然書き足りないから2部にします。よろしくお願いします。

#ボクシング #プロボクサー







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