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天才コンプレックス「転」後編

僕は3年生時のリーグ初戦の負けから立ち直れないでいた



あれだけやった。色んな壁も超えた。考え方も良くなった。ネガティブな性格も少しはポジティブになった。その日の調子も良かった。


相手は1階級下のフライ級の選手でリーグ戦ではチームの為にバンタム級に上げていたであろう選手、馬場ちゃん階級も違うし同じ関西出身の同期で良い奴だった。でもバンタム級では自分の方が上だと思っていた。



それが、結果は30秒で僕の負けだった。どう考えても理解出来なかった。自分は呪われているんだとさえ思った。



少し話が変わる。
その頃僕は「クレイジージャーニー」というテレビ番組にハマっていた。



ダウンタウンの松本人志さん、バナナマン設楽統さん、小池栄子さんが出演していて色んなジャンルのクレイジーな人達が出てくる番組だ。全員自分の好きな事ややりたい事をとことんやっている人達。


千日回峰行の塩沼亮潤さんの回は神回だ。悟りに近づく為の行で、過酷の極みだ。調べてみてください。


僕たちボクサーもある種の’’修行''のような部分がある。試合前は約10kgの減量、ハードなトレーニングは当たり前だ。朝はロードワーク。もちろん生活の為、普段の仕事も試合1〜2週間前までは行う。チケットの販売も自分で行う。それがボクサーの仕事だ。


だからダブルワークは一種の修行になる。当然、試合の次の日から仕事に出る。前回負けてしまった時は1週間休みを貰ったが…。


更にリヤカーマンの永瀬忠志さんも超クレイジーだ。


旅で使用するリヤカーは水・食料に加え寝具・食器・衣類・修理道具・予備の部品などでリヤカーを含めた総重量は200kgを超える。


それを引っ張ってアフリカ横断、サハラ砂漠を縦断してしまう。砂漠を200kgを超えるリヤカーを引っ張りながら…。板を敷いては進んでまた敷き直して…。


永瀬さんのクレイジーな部分はカメラでの撮影を自分でしている事だ。道を通り過ぎればカメラを回収しに戻る。その繰り返し…。僕には考えられない。いや、世の中でこんな事考えられるのは永瀬さんぐらいだ。


アドベンチャーレースの田中正人さんも大好きだ。最近のジャンクスポーツに登場していて、「やっと時代が追いついたか」と思った。


一つのアドベンチャーレースを例に挙げると、全長330km、標高3300mの山岳を駆け抜けるレースがある。…意味が分からない。その間の食べ物を自分で持ち、野宿し(睡眠時間なんて取っても15分程度だった。)、その過酷さから幻聴や幻覚が見えるのは当たり前レベル。全てがぶっ飛んでいる。



僕もこの辺りからよく山に出かけるようになった。1人で行って何も考えず、子どものようにはしゃぐのが好きだ。富士山にも1人で行ってきた。その次の年は友達と行って、鞄持ちジャンケンをしながら登った。



それからエベレストに登るのも自分のやりたいことの一つになった。
クレイジージャーニー達を見て、自分も自分のやりたいことをとことんやる人間になりたいと思った。自分の心が教えてくれるやりたいことを大事にする様になった。

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そして僕が影響を受けたのは、フリーダイバーの篠宮龍三さんだ


フリーダイバーとは、いかに無呼吸状態で深海へ潜っていけるかを競う競技だ。
100m以上下まで潜る。イメージして欲しい。普通の人は10メートルも潜れない。体が耐えられないだろう。”死と隣り合わせだ”


だから、フリーダイバーには強靭なメンタルが必要だ。


「プロボクサーという生き方2.0」でも書かせて貰ったがボクサーにも相当なメンタルが必要だ。



”殺されるかもしれないこと、殺すことになるかもしれないこと”



その両方があって、初めて覚悟することが出来る。篠宮さんは''ブラックアウト''と呼ばれる呼吸を止めることによって血液中の二酸化炭素濃度が高くなり、酸欠を起こし、失神してしまう現象を経験している。


その後、2年間のスランプ…。自分の内面を見つめ直す為に本を読み漁り、出会ったのが''禅"だったそうだ。


その中の言葉が''因果一如''だ。聞き慣れない言葉だ。


まず、因果応報という言葉を聞いた事があるだろうか。人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ、だ。


因果は原因と結果。応報はしたことに対する''むくい''だ。簡単に説明するとこんな感じになる。そして、因果一如では''結果と原因は同じ''ということになる。一如は、絶対的に同一である真実という意味だ。


原因は過去、結果は未来。そして因果には”今”を大切にするという意味が込められる。
クレイジージャーニーを見てこの言葉を知った。



因果一如という言葉と僕は出会う。



駒澤大学が仏教大学というのも少なからず影響しているはずだ。



「あれだけやった。色んな壁も超えた。考え方も良くなった。ネガティブな性格も少しはポジティブになった。その日の調子も良かった。」


僕は因果応報的な考え方をしていた。


そして、もう一度''結果''を見つめ直した。


1R開始30秒で頭と頭がぶつかって負傷負け。
「結果が全てだ」という言葉はごもっともだしその通りだ。でも「勝ち」とか「負け」だけを''全て''と言うなら僕は浅いと思う。


因果一如の、原因と結果が同じだとしたら…。


1R目、僕の調子は最高に良かった。スピードもかなり速かった。相手がスピードに慣れていない状態での僕のフェイントは、自分で言うのもなんだが相当厄介だ。


相手はそのフェイントを嫌がって頭を低くしてディフェンスの体勢に入る。頭が当たったのに気付いたのは血が出てレフェリーが試合を止めてからだ。僕も気付いてなかった。(ちなみにアドレナリンの影響で痛みは全くない。)僕も頭が当たる瞬間、目を瞑ってしまっていた。これが結果の''中身''だ



原因が分かってきた、結果が全てだ

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僕は''前''を向いていた。
怪我が治る頃、リーグ戦も最終戦(1戦目が5月で最終戦が7月)になろうとしていた。


その年の駒澤大学は負けに負けまくっていた。


リーグ4戦4敗。最終戦の相手は法政大学。こちらも4戦4敗。


法政大学は1部リーグにはまだ定着しているとは言えなかった。2部リーグの中央大学が1部リーグに上がったりもしていた。(今は中央が1部)
ただ僕たち駒澤大学は完全に自信を無くしていた。監督やコーチの焦り、部員の焦り、各々が感じていたと思う。


このまま法政大学に負ければ、勢いある中央にも勝てない…2部降格もあり得る。そんなことまで考えていた。


僕は怪我から思うような練習は出来ていなかったが出場することになった。この年のリーグ戦は今でも忘れられない感動の結末を迎える。


僕にドラマがあるように各階級一人一人にドラマがある。同じ寮で生活する仲間は仲の良い奴も悪い奴も含めて家族のような部分があった。
僕はバンタム級だからその前に2試合ライトフライ級とフライ級の試合があった。


早くも2人負けてしまった。


9対9で試合が行われる。先に5勝した方の勝ちだ。絶対に負けられない戦いだった。練習していなかったから体重も無理矢理落としていたし動きは最悪だったけど僕はなんとか勝利する事が出来た。


その後も両校一進一退の勝負が続いた。”大学生最後のリーグ戦になる4年生の活躍が目立った”。僕が3年生の時の4年生は1番お世話になった(一緒にいた期間の長さも含めて)先輩達だ。



永江君は一足早く選手を引退していた。その前年度のリーグ戦で永江君は5戦5敗していた。でも誰一人笑う奴はいなかったし(多分)、そもそも出られるだけで凄いことだ。優しくて可愛い先輩だった。


境先輩はいつもいじられてた。活躍してないし、リーグ戦にも出たことないはず。この時もいたかどうかも覚えてない…。笑、冗談です。みんな好きだった。


瀬戸先輩は仏の様に優しかった。太っていた。一度同部屋になった事がある。朝練が終わって部屋に戻ると死んだようにベッドに寝る。僕が学校に行って帰ってくると、全く映像が変わっていない部屋をよく見た。計量オーバーしたこともあったけど、それでも許せる最高の人柄だった。


レイさん(本名、レイフックターン。現在は日本の名前があるとか…でも純粋のベトナム人だったような。顔はハーフのイケメンって感じ)は強かった。監督やコーチによく怒られる先輩ってイメージだが、練習が理不尽なぐらいきつい時期に「これはおかしい」と直接、監督やコーチにものが言える、カッコいい先輩だった。(ただやりたくなかっただけだとは思うけど、僕も「レイさん頑張ってくれ」とその時ばかりは応援していた)
そういえば何やかんやで面倒見の良い先輩だった。


金中先輩は(前編でも登場した)リーグ戦でもポイントゲッターだった。それでも個人戦ではなぜか勝てなかった。あんなに強いのに。大学を卒業してから活躍してたのは流石だなと思った。疲れた様子や、悩んでいる様子、弱気な姿は一切見せない。きついはずの減量でもそういう姿を見せなかった。カッコいい先輩だ。


児玉先輩も怪我に悩んでいた。リーグ戦にも出ていない。でも児玉先輩は練習を頑張っていた。…確実に''何かと戦っていた''。優しくてイケメンで勉強も出来、簡単に単位を取り終え主務(ボクシング部のめんどくさい仕事、内容は難しくて分からない。通常、選手として活躍する選手はやらないポジションだ。)としても仕事の出来る先輩だった。これは僕の考えだけど、だからこそボクシングにもプライドを持っていたんだと思う…。1.2年生の頃は仲良くしてくれなかったけど後から直接飲みに連れってもらって「お前は生意気だったから嫌いだった」って教えてくれてから仲良くしてくれるようになった。プロになってからも試合の応援に来てくれたし、高い焼き肉屋で祝勝会も開いてくれた。


そして、この男の…この漢の話し無しではこの年のリーグ戦は語れない。
平川先輩だ。

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平川先輩は4年生のリーグ戦まで全国大会には出場したことの無い選手だった。高校の頃悪かったんだろうなっていう面影はあったけど、ヤンキー特有の優しさがあった。


正直、僕はボクシングで活躍するとは思っていなかった。更に3年生ぐらいの時に拳の手術を2回もしていた。…これがどれほどのことかは今になってよく分かる。


本当に心の強い人だ。


生意気な僕の同期を殴って拳を怪我したのは、もう時効の話だろう。平川さんは片手で沢山練習していた。黙々と…。4年生でリーグ戦のレギュラーを勝ち取り、拓殖大学戦で強豪、竹嶋選手(現在プロボクサー)に大金星をあげた。法政戦でも勝利し駒澤大学に貢献してくれた。大学を卒業する時に、僕たち後輩に言葉を送ってくれた。


”やってやれないことはない”


誰かがその辺の有名人の名言をコピーアンドペーストしたものではなく、重みのある言葉だった。


そして、リーグ戦は両校譲らず4対4のまま最終階級のミドル級に。
法政大学は森脇選手(東京オリンピック日本代表)、その年のリーグ戦ではチームは全敗だが個人として全勝中の4勝。
対する駒澤大学は4年生。


鬼倉龍大先輩だ。同じく個人では全勝中の4勝だった。この名前に名前負けしないオーラと華がある。
身長185cmでこのイケメン。

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こんな写真が許される。
おまけに勉強も出来た。よく英語の課題なんかを手伝ってくれた。反則だろって思うかもしれないけど、ちょっと天然というかなんというか…な部分があった。


よく僕は「すべらない話し」を真似して一発芸をしていた。鬼倉さんの話しはウケた。
でも鬼倉さんも悩みに悩んでいた。もの凄いパンチ力や身体能力があるのに、なかなか結果は出せなかった。
例によってよく監督に怒られる人だった。1番怒られてたかな。



大学を卒業してからもボクシングを辞めずに駒澤大学に練習に来ていた。国体で優勝した。東京オリンピック日本代表までほんとにあと一歩だった。


リーグ5位、6位(最下位決定戦だ、その最終戦)森脇君と鬼倉さんの試合は壮絶だった。強烈なパンチでお互いダウンを奪い合った。


鬼倉さんの拳に部員全員の思いが込められた。


当時の鬼倉さんのスタイルは”全弾フルスイング”。対する森脇君の身長も190cmに届くのではないかと思われる。身長と体格に似合わないオールラウンダーで足もよく動く。パンチにもインパクトがあった。


お互いの気持ちのぶつかり合いだった。最後まで強烈なパンチの交差が続いた。普通に観客として見ればこれほど面白い試合はないだろう…。




…結果は判定勝ちだった。
その瞬間応援していた部員は僕も含めて殆ど涙を流していた。
伝説の一戦としてリーグ戦の歴史に刻まれた。

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(当時の4年生。大好きな先輩達だ。)




話しは自分の個人戦に。


僕は大学3年生。その年の全日本選手権に予選を勝ち抜き出場した。
2年ぶりの全日本選手権だ。
あの頃とは違う、成長していた。



1回戦で山内祐季、直近の世界大学選手権で銀メダルを獲得していた。2回戦で後輩の嶋田(帝拳ジムからプロデビュー予定)、3回戦でその年のリーグ戦全勝、河野選手を破り決勝戦に進んだ。


淡々と勝ち進んでいた。って言うのは嘘で、1回戦も判定を聞くまで自信が無かったし、嶋田との対戦当日、僕は結膜炎で目が真っ赤だった。


当時、大学で流行っていた。これじゃあ試合に出られない(結膜炎は相手にうつる可能性がある為試合前のドクターチェックでストップがかかる)と思って相変わらず泣いていた。


とりあえず監督に言ったらまた怒られて、たまたま後輩が持ってた目薬をさしてみると赤みが少し引いた。あとは僕の目の細さを使ってさらにドクターチェックの際は自分で細目にして通過した。


河野選手は強かった。その前の国体で対戦していて、僕は優勢に進めていた。しかし、その時も頭がぶつかって僕が負けていた。全日本では全く逆のパターンで僕が勝利した。そうして決勝戦まで駒を進めていた。



相手は木村蓮太郎君。1年生だった。イケメンでスタイルが良くて明るいポジティブなキャラクターで性格が良い。僕も階級が変わってからは応援したくなると思った、そんな選手だ。

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結果は僕の判定負けだった。


内容云々ではなく、僕は気持ちで負けていた。自分に。僕が負けたけど実力に差はなかった。


でも僕はやり切っていなかった感を感じていた。何となく後からそう思った。


試合中も冷静だった。勝っているとは思わなかったけど、自分の「ここがダメだ」とか「これうざいんだよな」、「監督の言ってることは分かるんだけどさせてくれないんだよ」「クリーンヒットはそんなに無いからポイントはどうだろ」そんな感じで試合を進めていた。
技術も足りていなかった。まだまだだった。


でもやっぱりアマチュア最大の目標を目の前で逃したのは悔しかった。



そしてまたいつもと同じ’’2番''。
その時は「俺の人生はよく出来てるな、大学4年の最後で勝たせる為に負けたんだ」と思った。
だから腐らずにやれた。



僕は”持っている”


よく持ってない奴と言われた。

準優勝は一回戦負けと同じ」は4回とも沢山言われた。


うるせえ、準優勝は準優勝、2位は2位だ


満足していない。ただ、良い経験値を積んでると思う。1回戦で負けていたらその後の試合に勝った自信になるものや試合の中での(練習やスパーリングじゃなく本番で使えるようになる技術がある)気付きや成長は無い。1回戦で決勝の負けた相手と戦っていたらそれらの経験も出来ない。



僕は”強くなるチャンス”を掴んでいた。


全日本選手権での準優勝は評価された。
初めて日本代表の合宿の韓国合宿に参加させてもらえた。


ボクシング部は冬休みや夏休みは実家に帰省する。その間の練習の取り組みはとても大事だ。
僕には地元に帰れば、星さんや翔太さんがいた。せっかく和歌山に帰ってきたのにのんびりする暇もなく東京に遠征に出かけていた。冬になれば温水プールに通って柔軟性と体力を付けた。


周りと差をつけるのはこういう時期だ。


そうこうして、心技体が揃ってきた。(当時の自分の中で)


4年生になった。何としてでも優勝したかった。


駒澤大学を優勝に導きたかった。
練習も4年間で1番厳しかった。''練習の鬼''沖島 輝がキャプテン。僕と沖島 翼が副キャプテン。僕はうるさいぐらい厳しくしたし、4年間で成長した自分達のレベルに合わせようと無理を言っていた。まだまだ後輩を指導出来るだけの度量と器の広さはなかった。
今から思えば可愛そうだったな。


最終学年のリーグ戦前。僕は調子が良かった。地力が確実に上がっていた。スパーリングや出稽古でも実感していた。よくダウンを取ったりストップさせたりしていた。後ろの手(サウスポーの左手)の精度が上がりパンチを当てる''コツ''を掴んでいた。


リーグ戦には僕が出場する事はほぼ決まっていた。初戦の2週間ほど前にプロジムのワタナベジムに出稽古に行かせてもらった。


僕は開始早々、得意の左フックをヒットさせた、と同時に左手に激痛。そのまま右手だけでスパーリングをやり切った。


左手はパンパンに腫れていた。一緒にスパーリングに来ていた鬼倉さんは「以外と大丈夫やけん」(福岡出身だ)と。


監督に報告するとキレながら「お前しかいねぇんだよ。」


折れかかっていた心は復活した。片手で調整を続けた。距離をとり足で相手をさばく練習をした。手でのディフェンスも出来ない。



そして、僕はリーグ3連勝した。

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3戦目で右手しか使えないのを露呈してしまった。中央大学の松下君はタフだった。


もう限界だと思った。病院に行くと骨折していると言われた。そこで気持ちも切れてしまった。その頃の僕の右腕は異常に発達していた。

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OB会長の中島会長とはその頃からよく話しをするようになっていた。


自身も大学で準優勝に終わっていた。でもプロの世界で世界チャンピオンになった。プロになってからもずっと”チャンピオンに対してコンプレックスがあった”と話してくれた。


中島会長は自身の経験からずっとプロ志望だった僕を気にしてくれいた。アドバイスもよくくれた。最後は、「お前は未来ある選手だから、ここで無理をするな」と声かけてくれた。
そして4年生最後のリーグ戦を終えた。



そして、その年の国体に望んだ。
拳の状態は完全では無かったが、調子はまずまずだ。

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順調に決勝戦まで勝ち進んだ。


決勝戦の対戦相手は、中野幹士。リングでの再会は高校生の選抜大会決勝振り。


この試合の動画が無くてあまり覚えていないが結果から言うと、ジャッジ5人で2対3で僕の判定負けだった。でも僕の完敗だった。最終ラウンドラスト30秒ほどで'''見えないパンチ''をもらいダウンを奪われた。

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僕は集中力を欠いていた。少し踏み込んだ話しになるし、これはただの僕の感想だ。
その当時、日本アマチュアボクシング界では疑惑の判定みたいなものが存在した。(僕は影響を受けた事はない)当然、人間だから好き嫌いはあるし判定に偏りが多少は出るものだ。


中野はどちらかといえば''好かれている選手''では無かった。中野も帝拳ジム、プロジム出身でプロ志望だった。


アマチュアの日本代表や合宿にはなぜか呼ばれていなかった。当然アマチュア側からすれば、大学を卒業したらプロに行く人間に代表合宿や遠征に行く費用を払いたくないわけだ。


1大会海外で試合をするのに1人いくらかかるだろうか。数十万円になるだろう。僕もプロ志望だったけど表には出さなかった。試合中、僕は余計なことを考えていた。
「なんかこれ俺が勝つパターンだ。」


レフェリーは中野に注意を与えた。減点まで。
僕はそれから全く試合に集中出来なくなった。


「こんなんで勝っても何も嬉しくない。」「俺の初優勝を邪魔しないでくれ。」


僕はメンタルが弱かった。
そんなことを考えた瞬間マットに手をついていた。すぐ立ち上がったけど効いていた。
だから判定が割れたけど僕の完敗だった。


高校生の頃見えなかった中野のパンチはまた見えなかった。


それからすぐに全日本選手権があった。国体が10月で11月の中旬には全日本選手権があった。準決勝のリングで中野と再会した。
万全の準備をした。


しっかり坊主にして、中野対策をして望んだ。


作戦は有効だった、強烈な左のパンチは、なんとか''見えた''。僕は成長していた。一進一退の試合展開のまま試合終了のゴングをきいた。


”僕は天井を見上げた。体感時間にして3秒、少しの間がありアナウンスが響き渡る。「…青コーナー、中野幹士君」
アマチュアボクシング最後の試合、判定で僕は敗れた。僕は7年間、一つの目標も達成出来ずに一つの物語に幕を閉じる。アマチュアボクシングを終えた。”

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ただ、少しの満足もあった。アマチュア最後の試合にライバルに対して出せる力を出し切った。終わった後に、まだまだ改善の余地を感じた。プロになってもまだまだ成長出来ると。


僕の夢は世界チャンピオンになることだ。アマチュアボクシングは自分にとって”下地”を作る段階。まだまだ完成されてはいない。一つの作品が出来上がることもない。もっと言うなら、人生は一回。死ぬまでに南出仁という作品が出来上がるだけだ。ボクシングが全てではない。でも今はそれで良い。それが良い。濃い色で作品を作りたいから。



そして駒澤大学を卒業した。

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僕を育ててくれた中島会長、小山田監督、太郎コーチ、駒澤大学、本当にお世話になりました。
駒澤大学卒業生の誇りを持ち、これからもプロボクサーとしても精進します。
歴史ある駒澤大学ボクシング部の''社会''に入ることが出来て嬉しく思います。
先輩方が積み重ねてきた歴史をまた一つ積み重ねることが出来ました。
先輩方同様に後輩達にも尊敬の念を送ります。頑張ってください。






                 …続く。

#ボクシング #プロボクサー

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