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ほんの数分だけ虫の生まれた意味を考えた話

これは私が自宅マンションの部屋まで階段であがる間にふと考えたとりとめもない話です。(ちなみにうちはエレベーターなし4階にあります)

息子の行ってる保育園は蚕を飼っていて、飼育箱が年長さんの部屋の前に置いてある。朝送りの時、たまたま桑の葉に包まれた丸々太った蚕が何十匹も見えた。虫嫌いな私にとってそれはとてつもなくおぞましい光景なので顔をしかめたけれど、息子の担任の先生曰く、子供達は育てているうちに段々蚕に愛着を持つようになったのだと話してくれた。

恥ずかしながら私は蚕という虫の知識がほとんどない。知っていることといえば蚕が絹の原料となる繭を吐いて、そのために大量虐殺されているとどこかの動物保護団体が糾弾しているニュースを見たことがあるくらいで、そもそも虫は好きじゃないし、気持ち悪いし、今までの人生で蚕という小さな生きものに注意を払ったことがなかった。

思い返せば絹織物と人間の歴史はとても古く、私が若い時思いを馳せたシルクロードも文字通り絹を運んだロマンのある道だし、私が昔住んでいたフランスの街リヨンも絹織物で栄えた歴史があり、絹という高級素材については興味があっても、それを作り出す虫までには考えが至らなかった。

私は担任の先生に、蚕が繭になった後はどうするんですかと聞いた。なんとなく糸とか紡いでみたら面白いのにと、無責任に思っただけだった。
先生は「繭を作って、しばらくすると成虫が出てくるんですけど、すぐ死んじゃうんですよね。それを見てから、残った繭は制作に使います。」とわりかし淡々と言った。

私はその時になって、蚕は人間が品種改良を繰り返した結果、飛べなくなってしまった虫だという話を母から聞いたのを思い出した。母はこういう時必ず、人間は罪深いね。と話すので、私もそのことを思い出して、カイコは何てかわいそうな虫なんだろうと思った。

保育園をあとにして、自宅マンションの1階階段を登り始めた時に、蚕のことがふと頭をよぎった。
可哀想なカイコ。自分で餌を探しに行くような足腰の強さもないから人間の与える桑の葉だけを食べてフンをして、次の日も与えられた餌を食べてフンをして、そのうちに繭を作って出てきたと思うと飛べもしない。どこへも行けない。そういう体に人間がした。人間は罪深い。可哀想なカイコ。

2階を過ぎたあたりで、蚕は何のために生まれてきたんだろうと思った。毎日餌を食べて排泄をして繭を作って自由のない体で死ぬことに何の意味があるんだろう?あの保育園の箱に入っているカイコ数十匹の生まれた意味って何なんだろう。生まれたからには何かしら意味があるに違いないのに。けれどもそう考えれば考えるほど、私にはあのカイコたちの人生が無意味に思える。

不安な気持ちになりながら3階を過ぎ、もしかして生まれてくる意味なんてないのではと思った。私たち人間はなにかと人生の意味とか使命とか言うし、かくゆうわたしもそう信じたい。人間の偏狭なものさしではかるなとカイコは怒るだろうか。よくよく考えてみれば、どんなに素晴らしい功績を残した人だっていつかは必ず死ぬ。私みたいな凡人に至っては、さっきまで同情していた蚕と同じようにメシを食っては、排泄し、寝て、生殖活動も既に終え、同じような毎日の繰り返しではないか。え、やばいめっちゃ鬱。おいカイコどーしてくれるんだ。

暗澹とした気持ちで自宅ドアの鍵を開けたとき、一筋の光がさした。まてよ。あまりに無意味に思えるカイコの人生にもし意味あるとしたら、いまこうして階段をあがる間に、命の意味を考えるきっかけを私に与えたことじゃないだろうか?そうだよね?あー救われた。

そして近い将来訪れるカイコの死に際して、息子に何か聞かれたらこの回答で迎え撃とうとドアが閉まる頃に誓った。

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