ちょっと吉野まで
E.V.ジュニアさんのお話の続きを書かせていただきました。こちらを先に読むとさらに味わい深いです。
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「少々お待ちください」
娘は空になった器を盆に載せ,粛々と調理場に下がっていった。
無粋かと思いつつ耳を澄ますと,
「……父さん……吉野に……いいでしょう」と微かに聞こえる。
どうやら先ほどの返事はYesと受け取って良さそうだ。
さて,品書きを見る限り,店休日は火曜らしいから,彼女を案内するとしたら3日後になるだろう。
目的地を定めぬぶらり旅,予想外に変化していく行程も楽しみの1つだ。
よし,今日と明日はこの近くに泊まることに決めた。
支払いが終わったら,どこか良い旅館がないか尋ねてみよう。
こういうことは地元の人間に訊くに限る。
彼女を待つ間,会計がすぐ済むよう,財布を開いて価格ピッタリの小銭を用意した。
相変わらず風鈴は涼しい音色を奏でている。
夏に染み入りながら外の清流を眺めていると,先ほどの彼女が水色のワンピースを着て現れた。
「お待たせしました。暇をもらってきたので,吉野までご一緒させてください」
彼女は白いハンドバッグを両手で持ち,丁寧に頭を下げた。
なるほど,予想に違わず洋装もよく似合う。
いや待て,それよりも,大きな疑問が1つある。
「今から,ですか?」
娘はニコリと微笑み,頷いた。
なんということだ,彼女の行動力には感服してしまう。
ひとまず,揃えてあった小銭を手渡し,頭の中でシミュレーションする。
今いる山の茶屋から吉野までは,バスや電車を乗り継いで2時間程かかるだろう。
到着する頃には夕方で,名所である世界遺産の見学時間には余裕が無い。
日を改めるのが得策ではないか?
いやしかし,彼女の心意気も無駄にはしたくない。
「お客様,お支度は整いましたか?」
彼女の丁寧な呼びかけで我に返った。
反射的に「はい」と答え,畳を降りる。
と同時に,あることに気づいた。
鍵だ。
彼女は車の鍵を持っている。
「車で行くのですか?」
「はい。バスを待っていると日が暮れますから。恐れ入りますが,吉野までは私の運転でお送りします」
なるほど,都会で暮らせば自家用車が無くとも困らないが,山の上,公共交通機関の本数が少ない場所では必須アイテムというわけだ。
「ナビがあるとはいえ,向こうをよくご存知の方がいらっしゃると心強いです。どうぞよろしくお願いしますね」
また,あの爽やかな微笑みを携えて,彼女は正面の戸を開けた。
「こちらです」
案内されたのは茶屋の裏手,清流を背にした砂利の駐車場だ。
他の客のものと思しき車が何台か停まる中,目を引いたのは,側面に茶屋の屋号が書かれたミニバンだ。
我々はその車に乗り込み,ナビの目的地に吉野で有名な葛屋を設定して,小さな二人旅を始めた。
「こんな車ですみません。父の仕入先にご挨拶するのが休暇の条件でして」
「そうなのですね。逆に車で吉野へ行くという貴重な機会をありがとうございます」
「今日のことも記事になさるのですか」
「ひょっとしたら」
「わあ,それは楽しみです」
わあ,と声をあげた彼女は,茶屋で給仕をしていたときよりも幼く見えたが,それがまた愛らしくもあった。
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ナビの案内する最短経路は絶妙で,山中の細くうねった道もあれば,歴史的価値のある遺跡や建造物の横を通ることもあった。
そんな時は車を停めてもらい,写真を撮らせてもらった。
今のところ記事にする予定は無いが,何がいつどこで役立つかは分からない。
一時は山奥の森林の暗さに不安も感じたが,一人ではなかったし,吉野町に入る頃には人の気配が感じられて,すっかり胸を撫でおろしていた。
車中の話題は,専ら自分のこれまで書いてきた記事のことだった。各種学校におけるプログラミング教育のこと,自己流オーケストラの楽しみ方や,旅行記と旅先にまつわる歴史の話,一番ウケが良かったのは駅弁めぐりの話だ。
運転中なので写真を見せることまではしなかったが,彼女は「帰ったら読みます」と言って笑ってくれた。
不思議なことに,我々は互いに名乗りもしなければ,名を尋ねることもしなかった。
まぁ,この空間に人間は二人しかいないので,言葉を発すればすなわち相手に向けたものであるし,名を呼ぶ必要も無かった。
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我々が目指す葛屋,これも彼女の茶屋に負けず劣らず山の中である。
車で行けなくもないが,昔ながらの細い参道は,歩いた方がかえって安全だし,何より風情がある。
「ケーブルのりば」近くの駐車場に車を停めて,目的地へと足を進める。
黒門をくぐり,食事処,土産物屋,旅館と,以前訪れた時の逸話も交えて彼女を案内する。
大きく頷き感嘆する姿は優秀な学生といった感じで,こちらも解説しがいがあった。
銅の鳥居を越えた辺りで,彼女は父親の仕入先という店に立ち寄った。
「ああ,ここか」という老舗だが,個人で付き合いがあるとはあの茶屋の主人――彼女の父親はなかなかの人物に違いない。
十分程歩くと,吉野山のシンボルである金峯山寺が見えた。
「蔵王堂は東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築ですよ」
「わぁ,そうなんですね。全然知らなかった」
「学校の授業では習いませんでした?」
「京都も奈良も,千年規模の歴史ある建物がありふれてて,覚えきれなかったんです」
「なるほど。では,今日を機会にぜひ豆知識ということで」
冗談を飛ばし,談笑ながら,研修道場や南朝妙法殿まで拝観し,来た道を戻る。
「少し先に,もう一つ世界遺産がありますが,どうしますか?まだ歩けます?」
「はい。とても楽しくて,全然疲れてませんから」
本当は自分の方が休憩したかったが,せっかくなので先に進む。
長い坂をもう一息登り,時折振り返りながら,憧憬の街をじっくり見下ろす。
以前来たのは桜の頃だが,夏の深い緑も悪くはない。
県道から歩行者専用の通路へと進み,吉水神社を訪れる。
元々吉水院といって,金峯山寺の格式高い僧坊だったが,明治の神仏分離によって神社になったという場所だ。
「こんなに素敵な所に一回も来たことが無かったなんて,本当にもったいない。今日はご一緒できて良かったです。ありがとうございます」
「こちらこそ,長距離を運転してもらって,頭の下がるばかりです」
先ほどと同じように歴史を紐解いているだけのはずだが,会話の中には少しずつ,だが着実に,旅の終わりが滲み出していた。
再び県道に戻り,5分程歩いた先には,菓子処,茶処が何件か並んでいる。
目的の葛屋の暖簾をくぐると,我々に気づいた店員が,まっすぐに座敷へ案内した。
品書きを見て「店主のお勧め」を注文すると,数分程で,上品なわらび餅が届いた。
好みに応じて黒蜜と黄粉をつけるよう言われたが,それらが無くとも素朴な味わいがある。
葛単品,黒蜜のみ,黄粉のみ,両方と組合せを変えながらゆっくり味わっていると,彼女の方はとっくに皿を平らげ,茶も飲み干していた。
「あ,すみません。あんまりおいしくて,つい」
「確かにおいしいですね。先ほどの水饅頭と優劣つけ難い」
「父が聞いたら喜びます。それにしても,良い場所ですね,吉野。ちょっと遠いけど,京都や奈良の市内とはまた違った街並みですし,何より緑が多くて安心します」
「気に入ってもらえて良かった」
「また来てみたいです」
また,清々しい,爽やかな微笑み。
それは社交辞令だったかもしれないが,都会の喧騒に疲れ切った心を癒やすには十分だった。
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復路は最短経路ではなく,国道や県道など大きな道を選んで走ることにした。
それでも車載ナビは約1時間後の到着時刻を示しているし,問題はない。
往路と同じように,世間話をしながら進む。
1つ違うとすれば,彼女と二人だけの時間がもう少し長く続けば良いと願う自分がいることだ。
渋滞にでもつかまれば良いとさえ思っている。
だが,それもそろそろ諦め時だ。
車は出発地である茶屋に近づきつつあった。
「今日はどこかに泊まるのですか?よろしければお宿までお送りしますよ」
運転中の彼女が言った。
「ああ,実はまだ決めてないんです。どこか近くに,良い旅館はありませんか?」
「わあ!それならぜひ,うちに泊まってください!」
「うち,ですか?」
「はい。あの茶屋は別館で,本館は最大300人泊まれる温泉宿なんです」
なんと,今日は驚きの連続だ。
願いが叶ったのか,まんまと手中に嵌ったのかは,神のみぞ知る。
「どうなさいますか?」
悩んだ末に,出した答えは――
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フィクションですが、金峯山寺と吉水神社は実在しています。
1000字くらいのつもりが、3000字超えちゃいました、スミマセンm(_ _)m
筋書きを定めず「お互い名乗らない」とだけ決めて、登場人物たちに任せたらこうなりました。なんじゃこりゃ!でもたまには、こんなのもありかな?
締め切りが今日なのでここでリリース!
挿絵を入れようかと思ったら無料フリー素材ではまあ難しかったので(せっかく見つけてもDL制限が…)ちょいちょい更新します。
なお執筆にあたって参考にしたのはGoogle earth(すごく重宝しました)と以下のサイトです。
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17:30 追記
本作はE.V.ジュニアさんの文体を模倣した作品でもあり、ご本人のお墨付きもいただいたので、 #書き手のための変奏曲 タグも付けさせていただきました。
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#書き手のための変奏曲 とは? こちらをご覧ください。
応援してくださるそのお気持ちだけで、十分ありがたいのです^_^