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思いやりの気持ち、矛盾、SNSの使い方

書きながら自分も反面教師というか、自分の中でも思いやりの気持ちが足りない部分もあると思うので、反省しようと思う。

ポストする時に結構自由に好きなこと書いてるように思われるかもしれないけど、私の中でかなり気を遣っている部分がある。

それは、「何事もやりすぎない」ということ。
自分の身の回りにあった嬉しいことを書きすぎても「自慢」だと思われるし、逆に不幸なことばかり書きすぎても重くなる。
愚痴ばかり書いていると読み手が疲れてしまう。
実際Xは別に自分の情報収集であったり、インスタグラムと違って若干マイナス寄りに使っている人も多い気がするけど、それでもそこは「SNS」なんだから自分が発信することの影響力(鍵アカは別)を多少考えないといけないと思う。
この「note」という場所ではタイトルで読むかどうか選ぶこともできるし、ホームに流れてくるのはカバー画像とタイトルだけで、勝手にフォロワーさんの視界に全てが入り込むわけではない。ただXはどうだろう。フォロワーさんには自分のポストがTLに表示されてしまう。だからXにポストする内容、noteに書く内容、更にnoteのメンバーシップに書く内容など、気を付けている。

そんなに周りばかり気にして何になるの?と思うかもしれない。それも一つの意見だと思う。でも周りを思いやる気持ちは必ず自分に返ってくると思っている。私は何でもばっさりハキハキ言っているようで、TPOは弁えるよう気を付けているし、できていないこともあるけど相手の意見を一旦肯定して、そこから自分の意見を伝えるようにしている。

相手がどう思うか?今それを読む相手はどんな気持ちなのか?
一切そんなのお構いなしで自分の言いたいことだけを言いたいならいっそメモに書き溜めるだけでいいんじゃないか。それを発信したいのはそこに伝えたい誰かがいるから?それとも誰かに構ってほしいから?

私は大事な人ならその人が困るようなことはしたくないし、そんなに冷静になれない時は自分一人で抱え込むか2人きりの場所を選んで話すと思う。不特定多数の誰が居るかわからないところでましてや自分が発信する場以外のところでイライラや憎しみ、苦しみを吐き出されても周りにいる人が気を遣うし困ってしまう。本当に今その言動でいいのか、常に考えながら発信していきたいし、その思いやりが些細なことでも何か誰かのためになっていくのではないかと思う。

本当に自分は悪くなくて、相手が全部悪いのか?
100%正しい人間なんていないだろうし、100%間違っている人間もいないと思う。自分が例えば誰かを下に見ているとして、その相手に助けられる局面だって長い人生の中であり得るかもしれない。
想像力を大切に、思いやりを大切に。



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