【リライト】粋な女

 二日酔いからようやく復活し、若干ふらつく頭を抑えながら酒を買いに行こうと海辺を歩いていた俺は、ふと気になる女を見つけた。
 淡いピンクのカーディガンにレース調のロングスカートを履いている。見た目ではなく気になったのは、その女がカフェラテや水ではなく、手に缶ビールのロング缶を持っている一点だった。

「つまみも無しに飲んでるんですか?」

 普段なら絶対にしないだろう。俺は気が付けば声を掛けていた。

 女はゆっくりとこちらを見上げる。長い黒髪がなびく。大きな瞳と目が合ったかと思うと、いたずらっぽく微笑んだ。

「つまみなら、ここにあるさ」

 徐ろに立ち上がると女は、思い切り手を広げ空気を吸い込む。スーッという音がしばらく波が起こす音に混ざって伝ってきた。

 俺は少し考えて、潮風から塩分を摂取しているのだろうと結論付けた。

 俺に向き直った女は、そこでまたビールに口を付ける。

「この世には美味いつまみがまだまだ沢山ある」
「……まぁ」
「私はそれでビールを飲むのが生き甲斐なのさ」


 粋な女だな、と思った。


 最初に顔を見た時はやや童顔だと思ったが、それからは想像も出来ないほど妖艶な笑みを見た瞬間、俺は意識を手放していた。


 気が付けば俺は自室で突っ立っていた。さっきの出来事は夢だったのだろうか。やけにリアルな感覚だけが残っていて変な気分になる。それを無視するようにして買い物に出かけた。何となく海辺を避けたため、あの女に出会うことはなかった。


 あれから数日経った後、会社帰りに歩いていると、公園で見覚えのある女を見つけた。ベンチに腰掛けながら、特別なライトアップがされているわけでもない、街頭に照らされた一本の桜を眺めながら一人で缶ビールを煽っている。

「桜、綺麗ですね」

 その姿にあてられたのだろうか。俺は無意識に声を掛けていた。

「おや、君は……。こないだはすまなかったね。でも二回目声を掛けてきた人間は君が初めてだよ。今、ちょうど桜で飲んでいたところだ」

 心底楽しそうに身体を揺らしながら笑う女には、背後に咲く満開の桜がそれはそれは映えていた。


「……だが私は、あまり景色で飲まない方が良いらしい」

 しばらくしてからポツリと一言、女が言う。俺は女と共に桜をぼうっと眺めていただけなので表情までは分からないが、どこか寂しげに聞こえた。
 しかし耳はきちんと捉えていたようで、自然と言葉が出てくる。

「どうして?」
「消えてしまうのさ。私がそれをつまみにした時にな」
「どういう……」
 事、と聞く前に、俺は意識を失った。


 再び意識を取り戻したのはまたしても自室だった。だが、はっきりとあの女について覚えていた。

 つまんだものが消える。あの女はそう言った。
 復活させる術が無いのなら、当然俺達は困る。
 しかし悪意は全く感じられなかった。何故寂しそうにするのか。それでも何故酒を飲むのをやめないのか。

 俺は聞いてみたくなった。


 次に会えたのは数週間後、夜間に住宅街をぶらついている女を見付けたので駆け寄った。しかし────

「あれっ? ビールは?」

 女はビールを持っていなかった。

「君ももの好きだね」

 女は喜んでいるのか呆れているのかよく分からない笑顔を浮かべながら、ゆっくりと辺りを見渡した。

「ここには人間が住んでいる。例えば、あの赤い屋根を付けた家の造形に私が惚れ込んだら、消えてしまうのだよ」
「それは……」
「だから今は"禁酒"しているのさ」

 いたずらっぽく笑う。不思議だ。年下にも年上にも見えてしまうこの女の魅力は、筆舌に尽くし難い。

「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「なんだい?」

 一呼吸置く。それでもやはり緊張しているのか、少し上ずった声で俺は尋ねた。

「つまみにしたら消えるのに、何故それでもあなたは飲むんですか?」

 酷い事を言った、と思った。でも、どうしても聞いておきたかったのだ。
 今度は寂しげに笑う表情を見せた女は、言う。

「美しいから、かな」
「美しい……?」
「山も、星も、川や雲や花も。ひとつとして同じ形が無く、それぞれが役割を持って生命を感じさせてくれる。その一つ一つが全て美しい」

 更にもう一つ付け加える。

「消えてしまう儚さも、ね」

 消えてしまうのは私のせいだが。と自嘲気味に笑う女を見て、俺は決意を固める。

「だったら、俺をつまみにしてくれませんか?」

 遺す相手の居ない遺言だった。そして、告白だった。

 女はしばらく俺を見つめてから、楽しそうにケラケラと笑う。

「君は面白い。私相手に怯えない人間は、なかなかいなかった」

「あなたのような粋な女に飲まれるんなら、至福の限りですよ」

 どれ、やってみようかといつの間にか手に握られていた缶ビールを開ける。プシュゥという小気味よい音を立てて泡が盛り上がる。

「せっかくだ。君もやりたまえ」

 そう言って先に開けた缶ビールを、俺は女から受け取った。
 更にもう一缶、今度は女自身の為に開ける。

「乾杯」

 缶を合わせて、俺も一口飲む。それは今までで飲んだどのビールよりも美味く感じられた。
 女は一口グッと煽る。ゴキュゴキュと喉を鳴らす。豪快な飲みっぷりだ。

 息をつくと、俺の方を見て、寂しげに笑った。

「すまないが、君では飲めないな」

 そして、フッと風が吹いたように女の姿は消えてしまった。


 俺は、ものすごい喪失感を覚えたまま、その場から動くことが出来なかった。

 水滴が2つ、地面にこぼれ落ちて、消えた。


 

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