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下りエスカレーターからの景色

人間、存在しているだけで金がかかる。

生きていればお腹が減るし、炎天下を歩いて休憩したくなったらカフェに入って何か注文しなければならない。寝るだけの家にも家賃光熱費は必ずかかる。人生は下りのエスカレーターをかけ上がっているようなものだ。気を抜いたら真っ逆さまに落ちるだけ。苦しくても疲れてもしがみついて、どうにか落ちないように駆け上がるんだ。特に20代までは、いかに効率的に駆け上がれるかをずっと考えてがむしゃらにもがいていた。足を止めて休んでしまったら、その分落ちていくだけだ。

落ちた先は生活保護とかホームレスとかというより、私の場合はある「臭い」だ。アンモニア臭、人糞や猫の糞の臭い。あそこにはもう戻りたくない、そういうところの臭いだ。

幼少期を過ごした団地のエレベーターには高確率でおしっこの水溜りがあった。人間のものだか動物のものだか分からない、ひどい異臭を放つ液体と一緒に密室に入るのは苦痛だ。住んでいた7階まで息を止めるか、諦めて階段を使うか、いつも頭を悩ませていた。少しでも休んだら、足を止めたらあの時の1階のエレベーターホールに押し戻されるような気がして、何がなんでも駆け上がるしかないと感じていた。

予算と学力の折り合いがついた都内の私立大学に入学して、周囲の人間関係がガラッと変わった。下りのエスカレーターを駆け上がっているのは私だけじゃないと気づいた。同時に、誰もが下りのエスカレーターに乗っているわけではない、ということも知ってしまった。止まっている階段を悠々と登っている人もいるし、上りのエスカレーターを全力疾走で駆け上がったり、時に足を止めて周りの景色を楽しでいる人だっている。

私は大学に入って、そして卒業後の進路のいろいろな選択を見て、そういうことを知ってしまった。

だけど、誰もがそれに気づくわけじゃない。

コロナ禍での政府の発信するメッセージを受けていると、もしかして、という疑念が湧いた。政治家の人たちの多くは、下りエスカレーターの人生なんて見た事がなくて、その存在すら知らないのではないだろうか。補償無しで休業させたり、仕事を制限することが生活や命を脅かすということを、本当に理解できていないのではないだろうか。


そして私は30代の半ばになった。先行きが不透明な状況はそんなに変わっては無いけど、都内でそれなりに楽しく生きられるようにはなってきている。下りエスカレーターの人生を惨めに思うこともあったし、子供を持つことで、よりエスカレーターの存在を意識せざるを得ないシーンも増えた。だけど、最近はそれも含めて楽しんでいる。

学校や新卒入社など、与えられる経験の中で得られるのは、「どうやって下りエスカレーターを駆け上がるか」ということだけだ。だけど、自分から知識を求めて足と頭を動かして学んでいくと、もっと違うありかたがみえてくる。

上りエスカレーターを駆け上がっている人から学びを得ることもあれば、下りエスカレーターからどう落ちないかを考え続けて得た知見が、彼らの役に立つこともある。よく目を凝らしてみると、エスカレーターの脇には非常口があったりもするし、エスカレーターの動きを遅くしたり、角度を緩やかにしたり、むしろ着地先を心地よい場所に作り替えて、思い切って降りてしまうことだって、実は可能だ。

人生は捉え方次第だ。どんなに恵まれてなくても、豊かに生きることは可能だ。と同時に、自分の視線から何が見えるのか、どう見えるのか、それは言葉にして人に伝えない限り、無いものになる。

どんなに小さなことでも、自分から見える景色を、周りの人たちに伝えてゆこう。そうしてゆくことで、社会を少しでも変えられると信じている。

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