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エミネム、『XXL』で本音爆発

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<なぜ、このインタビューを訳すのか>


エミネムの肉声を感じられる記事が、9月14日『XXL』に掲載された。『XXL』は1997年に創刊されたヒップホップ雑誌だ。現在は、ほぼ季刊で雑誌を発行するほかウェブマガジンを運営している。最近、大物のアーティストが文字媒体のインタビューにめったに応じない。VOGUEあたりのファッション誌にハリー・スタイルズやビリー・アイリッシュがたまに応じているが、質問に鋭さは求められないし話題が集中するのは表紙を含めた写真だ。音楽にかんするインタビューは映像、たとえばアップル・ミュージックでのThe Zane Lowe Showでの対談だけで十分、という空気がある。発言を切り取られたくないのか、ケンドリック・ラマーも新作にかんするインタビューは受けていない。これ、わりと困るのだ。自分でも解説原稿を書いて思うのが、アーティスト本人の発言に勝る「正解」はない、ということ。もっと、正解を教えてほしいのだ。優れた批評、考察も読んでいて楽しい。勉強にもなる。ただ、溢れている(って巨大なブーメランだけれど)。

2022年の『XXL』のエミネムの記事は、厳密にはインタビューではない。本人の独白にちかい文体で構成されている。補足と感想はあとにして、まず、訳出した全文を読んでほしい。さきに断ると、これはコピーライトの面でグレーゾーンの行為だ。『XXL』に怒られたら、要約文に切り替えようと思う。また、文中に出てくるドラッグの名前は私の判断で暈した。理由は、出てくるのが非合法のドラッグではなく、鎮静剤や睡眠薬など処方箋で服用できる薬であり、故意にまちがえて服用する方法を日本で広めたくないためである。

<本 文>

エミネムがXXLの創刊25周年を記念して、本誌でもそのすべてを丁寧に記録してきた輝かしいキャリアを自身でふり返ってくれた。エムは何を学び、どうモティベーションを維持してきたのか。なぜ、本物のリリシストでいることこそ、彼という人間の根幹にあるのか、自身による洞察である。

文:マーシャル・マザーズ

自分が人に影響を与える人間になるなんて、考えたことさえなかった。最初のアルバムが出たとき、俺はまだあちこちを泊り歩いていた。ほとんどがキム※の両親の家だったけど。自宅はセカンド・アルバムが出るまで購入しなかった。それまでは(人気が)続くか確信できなかったからね。でも、みんなが連絡をくれて、人気が爆発しているとやっと気がついた。それが「スタン」※を書いたときの、ひとつのインスピレーションになった。この人たち、ほんとうにこの俺を尊敬しているんだ? ただ、驚いた。みんな俺に腹を立てているんだ? ちっぽけだった俺に? なんでこうなるんだよ? 自分にファンがいるなんて夢が叶ったみたいだったから、「スタン」を書いたわけだ。一方で、なんか妙で非現実的な気もした。いまここに座っていても、このレベルにまで到達したのが信じられない。俺は一目置かれるMCになりたかっただけだ。ふつうの仕事をしなくても生きていけるだけ、稼げればよかった。それは俺の闘争心に直結していて、いつ消えるか自分でもわからない。消えるとしたら、の話ね。たぶん、それをリリシズムに織り込めるのが俺の最大の武器なんだろうね。

ドクター・ドレーとインタースコープと契約する前、ロイス(ダ・ファイブナイン)と交わした会話を覚えている。ベース・ブラザーズと曲を作っていたとき、ヒップホップ・レーベルで働いているって言っていた人が契約したいって言ってきた。俺は3、4曲を渡してから、そいつが話とは全然ちがってただの郵便係だってわかったんだ。どん底だった。うまく行く気配がなくて、どうしていいかわからなかった。俺は24歳で面倒を見ないといけない赤ん坊がいて、ただラップをしたいだけなのに先行きが見えなかった。めちゃくちゃ落ち込んでいたよ。そのときのロイスとの会話がこうだ。俺たちはレッドマンが大好きだ。いまのいままでレッドマンが大好きだ。くそったれなほどめちゃくちゃにファンだ。だから、その会話で「ロイス、せめてゴールドくらい売れればいいよね。レッドマンを見てみろよ。彼はめちゃくちゃリスペクトされている。それ以外のスターダムとか関係ない」。売れ出してからも、この会話はずっと頭にこびりついていた。これは次の段階だ、って思ったんだ。望んでもいなかったのに。つみ上げられた積み木のように、俺が成功するように全部がしかるべきところにはまって、ひとつでも抜き取ったらすべてが崩れそうだった。

1997年のラップ・オリンピックのすぐ後、LAに向かう直前に車中で友だちと交わした会話も覚えている。『ザ・ファーム』※のアルバムが出たばかりで、「フォーン・タップ」はそれまで作られたなかで最高のビートだと俺は思った。「もしドレーと組めたら、やばすぎるよな。彼はマジですご過ぎる」と言ったのを覚えている。その3週間後、俺はドレーの家にいた。『ザ・スリム・シェイディ・LP』を作ったんだ。楽しんで作ったアルバムだけれど、そこから突然すべてが変わった。
LAに初めて出てきたとき、俺と仲間数人で(メキシコの)ティフナに行ってはドラッグを買っていた。オピオイド系の鎮痛剤とかだね。何回行き来したかわからないけれど、すごく簡単だった。入国審査の2列目で待っていた時、すぐ前の男が審査官と言い争いを始めたときが最後になった。彼らは、その男を地面に組み伏せてポケットから錠剤を取り出した。俺らも死ぬほど怖かったけれど、なんとか通り抜けた。俺たちは宝の山を持っていたから。パンツのポケットは錠剤のドラッグでいっぱいだった。数も覚えていないくらい。

もし俺がそこで刑務所に入れられていたら、たぶんアルバムは出ていなかったしラッパーとしてのキャリアもなかっただろう。一巻の終わりだったはずだ。それが最初のサインだったけれど、問題を抱えているとは思っていなかった。ただ、ほんとうにほんとうにドラッグが好きだった。稼げるようになるにつれ、俺はたくさん買うようになった。売れ始めた当初は、まだ中毒ではなかった。(安酒の)40を飲みながら、家の前のポーチでラップ・バトルをしていただけ。ドラッグを使い出したのはファースト・アルバムを出してからだ。有名になるまで、ハードなやつはやっていなかった。あれこれ試した。ドラッグの好みとかなかった。昔はツアーに出ると、みんなただでドラッグをくれたんだ。しばらくはコントロールできていた。それから突然、ハマりすぎてどうやってやめたらいいかわからなくなった。

白人のラッパーだったから、売れ始めるとものすごく叩かれた。『XXL』もそう書いていたよ。ニューヨークのニューススタンドに行って創刊されたばかりだった『XXL』と、ほかのヒップホップ雑誌を2冊買ったんだ。最後のページまでめくってみたら、『XXL』は俺をディスっていた。なんなんだよ? 記事を全部読んだかは覚えていない。それまでは、自分について書かれている記事を読むのが好きだったのに。そこまで断罪できるほど俺のことを知らないだろう、と感じて傷ついた。売れ始めた頃はそういう目によく
遭ったな。俺がやっているのはブラック・ミュージックだったからこそ、敬意を表していたかった。自分が「客」として入っていったのはわかっていた。『XXL』、『ザ・ソース』、『ラップ・ページズ』『ヴァイブ』※は当時のバイブルだったんだ。それで、白人がヒップホップで突然、売れ始めるとみんながどういう見方をするか理解した。『XXL』がもし一回でも俺から話を聞いていたら、もう少し理解してくれたとは思う。もちろん、俺は腹を立てた。叩くのは雑誌だけには止まらなかった。ラッパーたちが左からも右からも標的にしてきた。俺はラップ・バトルで勝ち上がってきたから、痛くも痒くもなかった。わかる? 誰が来ても全面対決するつもりだった。

でも、(『XXL』とは)なんとか関係を修復できた。どうしてできたかは覚えていない。どんな会話が交わされたか、何がきっかけかは覚えていないんだ。最初、俺は「マーシャル・マザーズ」で『XXL』をディスった。「おまけに俺はニューススタンドに歩いていって フード・スタンプで安っぽいちっぽけな雑誌を買ってやった わかった お前らクソ野郎に教えてやるよ 『XXL』、『XXL』だ これでたくさん売れるようになるだろ ああ どうでもいい 俺があと2冊買ってやるよ」。でも、もっと後になってレイ・ベンジーノとのビーフ(諍い)が起きたとき、俺はこう言ってやった。「『XXL』の電話番号ならもってるから」。50セントと契約したときは、俺と50、ドクター・ドレーで表紙にさえなった。『ザ・ソース』との戦争は続いていた。※

その頃、ドラッグ中毒との闘いが始まった。みんなは気がついていなかったけれど、内心、自分でもひどくなっていることに気がついていた。俺はずっと隠していたし、できるだけしっかりしていようとしたんだ。おまけに、同じ時期に50セントとジャ・ルールのビーフを巡ってたくさんのことが起きていた。俺たちはもっと焚きつけるように、ディスっている曲を作って応酬をくり広げた。『マーシャル・マザーズLP』をリリースして、『アンコール』に取りかかったあたりで、俺の中毒はひどくなった。鎮静剤、抗うつ剤、それから酒。短いあいだ、姿を消して理由を説明しなかったこともあった。状況がほんとうに悪化していると気づいたのは、俺と50、Gユニットで「106&パーク」に出演して「ユー・ドント・ノウ」をパフォーマンスしてからインタビューを受けたときのことだ。タガが外れた瞬間だ。司会者が俺に話しかけていたのに、俺は彼女の言っている言葉が何ひとつわからなかかった。50が助け舟を出して、すべての質問に答えてくれた。
それまで使っていたものに加えて、さらに睡眠薬を摂るようになっていた。パフォーマンスをする前に少量を摂るんだ。おかしいと思うだろうけれど、睡眠薬には鎮静作用もある。眠るために使うのでなければ、妙に無気力な感じになる。何か言っているのは見えるし、その言葉も聞こえるけれど、まったく理解できない。そのインタビューを今見たら、俺が言っていることがわかると思う。そのとき、周りのみんなが「奴は壊れている。様子がおかしい」と気がついた。

簡単にまとめると、ドラッグを大量に摂取して依存症になっていたのは、人生でたったの5年間だ。我ながらふり返ると異常だったと思う。その状態にいたときはすごく長く感じたのに、いまふり返っても問題が紛糾したのは短い期間だったんだ。プルーフのことがあって※、俺の中毒はものすごい勢いで悪くなった。プルーフが亡くなった直後、俺はひとりで家にいて微動だにしないで天井のファンを見つめていた。錠剤を摂り続けながら。ほんとうに2日間歩くことさえできなくて、摂取量に歯止めが効かなくなった。一時期は、ドラッグを買うために10人ものディーラーとやり取りしていたくらいだ。75から80錠の抗うつ剤を一晩で摂取していた。やり過ぎだ。いまこうやって生きているのが不思議なくらい。自分を麻痺させていたんだと思う。プルーフが亡くなって数ヶ月後、トイレに行く途中で転んだ。それしか覚えていない。つぎに気がついたときはあちこちをチューブにつながれて、話すこともできなかった。なにもできなかった。どこにいるのか、何が起きたのかもわからなかった。

いままでのアルバムを見返すと、最初の3枚は自分でも全面的に誇らしく思える。時々、インスピレーションが必要な場合に、そこに立ち戻って聞き返す。昔の曲を聴き返して力をもらうんだ。それでも、ああ、ここのヴォーカルはもっと上手くできたはずなのに、とも思うけど。この単語はこっちとつなげられたのに、とか。そんなことをよくやっている。
『アンコール』はまったくちがう、くそったれな軌道に乗っている。あれは中毒がひどかったときの作品だ。くそみたいな錠剤に依存しているのを自覚し始めていた。『ザ・エミネム・ショー』と『8マイル』のサントラをリリースしたすぐあとにレコーディングに取りかかり、いい流れで7、8曲ができた。それなのに、曲がリーク(流出)してそれらの曲はボーナス・ディスクに入ることになった。流出さえなければ、『アンコール』はかなりちがう作品になったはずだ。「ウィー・アズ・アメリカンズ」、「ラヴ・ユー・モア」といった曲が流出のせいでボートラ扱いになったのはがっかりした。それで、やり直しだ。登山をしないといけなくて、半分まで登ってから突然、突き落とされたような気分。「ウィー・アズ・アメリカンズ」が1曲めで、「ブリー」が続くはずだった。それから「イーヴル・ディーズ」。流出したほかの曲も併せて『アンコール』に収録されていたら、『エミネム・ショー』と同じくらい強力な作品だったと俺は思う。問題は、レコーディング中に俺はさらにドラッグに依存して、ふざけたムードになっていったこと。それで「アス・ライク・ザット」や「ビッグ・ウィーニー」、「レイン・マン」やそれ以外のくだらない曲を書いた。当時、それらの曲は数秒で書いていた。ハイなまま書いて、楽しくやっていたんだ。20錠も摂っていたら気分がいいし、楽しもう、関係ねぇって。

あのアルバムのリリースが、完全に目覚ましコールになった。平手打ちされて、正気になった瞬間。うまく転がっていたのが、なぜか転がり落ちてしまった。どうやったら戻れるかわからなかったし、曲の流出を含めていろんなことに腹を立てていた。流出のせいででアルバムの全体像が変わってしまったからね。「ライク・トイ・ソルジャーズ」とか出来がいいと思っていた曲もあったけれど、胸の奥底では『エミネム・ショー』の質より劣っているのがわかっていた。
あれは失敗作となり、最善を尽くさなかった事実から立ち直るのに苦労した。流出さえなければ、最善を尽くした曲で十分いい作品になったはずだそれでも、その時点でできていた曲でリリースしてしまって、自分のカタログに汚点がついた気分になった。『アンコール』はそこそこ売れたけど、俺は売れた枚数を気にしたことはない。それより、みんながあのアルバムをどう捉えたかを心配していた。批評家とファンは俺にとっては重要で、いつもあの作品で攻撃された。

これまでの25年間、仕事で俺に起きた一番奇妙で、おそらく一番すばらしい出来事は俺のヒーローたちに会えたことだ。修行していたときにインスピレーションを受けたMCたち全員だ。ドレーに会えた事実を受け入れるまで長いことかかった。インタースコープの部屋に入ったとき、なにこのすごい出来事は? ってかんじだった。まじで現実なのか? って。それから、トレッチ(ノーティー・バイ・ネーチャー)やレッドマン、クール・G・ラップ、ビッグ・ダディ・ケイン、マスタ・エースやラキーム。彼ら全員がいなかったら、いまの俺はない。彼らから俺はインスピレーションを受けた。彼らを研究した。クール・G・ラップは10もの単語を2行に詰め込んで、すべてがしっくりくるんだ。それも学んだ。「負け犬への手紙だ アヒルみたいなお前らマザーファッカーたちへ お前の彼女はアヒル口をするだろ だからくっついてやったよ」とか。彼は1行をラップするあいだに、5つのライムを入れ込んでいるんだ。いまでも、LL・クール・Jと話すたびに挙動不審になるし、内心すごく焦ってしまう。
聴き込んで、研究して、と同時にすごく愛していた。ヒップホップが大好きだった。D.O.C.やトゥパック・シャクール、ビギー(・スモールズ)といったラッパーたち。彼らから影響を受けた。彼らが存在していなかったら、俺はいまいる地位に近づいてさえいないはずだ。現在のヒップホップにおいて、俺の役割はつねに最高のラッパーでいようとすることだ。それ以外はない。それを心で感じていたいんだ。その感情をもつこと。それは、J. コールが出したばかりのとんでもない曲を聴かないと感じられない。ケンドリックが出したあれは一体全体なんだ? って。それで俺は気が付く。ああ、こいつらは真剣なんだ。ほかの奴らと一緒に蹴散らかされるわけにはいかない。俺が何者かいまでもみんなに示したい。前も言ったように、「奴らは最高のラッパーになるためにラップしている」。彼らの曲を聴くと、「ヨー、俺はいま現在、最高のラッパーではないな。起き上がらなくちゃ、ラップをしなくちゃ」ってやる気が出るんだ。
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ラップの書き方は、昔とはちがう。以前は、その辺りにある紙片をくれればアイディアを書き出していた。たまに、あの頃の自由を取り戻せたら、と思う。キャリアの初めの頃は、なんでも描けるでかいキャンバスを持っていた。「これとこれ、これについてはまだ曲を作っていない。だから、この曲を作ろう」ってね。そのキャンバスに描けば描くほど、あるとき突然、もう考えつくすべての事柄について曲を作ってしまったと気づく。それで頭を悩ませるんだ。もし、最高のラッパーでいるか、最高のアルバムを作るかという選択肢があるなら、俺は最高のラッパーでありたい。俺は最高のラッパーになるためにラップをしている。もちろん、それは主観の問題だ。だれだってお気に入りのラッパーがいるしね。でも、俺の頭のなかでは、いい曲を作ることよりも、いいラッパーであることが大事なんだ。
いまの時点では、ほかのみんながキャリアのあいだで経験する大きな到達点は、俺はもう達成している。だから、売れた枚数やチャートに過集中(ハイパーフォーカス)することはない。俺がハイパーフォーカスしているのは、ケンドリック・ラマーやジョイナー・ルーカス、J.コールやビッグ・ショーンといった人たちだ。彼らを観察して何をしているか気にしている。なぜなら、彼らも最高のラッパーであることに集中しているから。

俺はこの地点でだれもしないようなこと、それ以上にいけないようなことをしたい。だれも到達できないレベルのラップをしたい。もちろん、それは主観の問題だし、どのラッパーだって、とくにバトルラップをやっているラッパーであれば最高のラッパーになりたい。だから、俺を押し出そうとするような若い世代を期待している。俺はもうアルバムを作らなくていい。いまの時点でしなければいけないことは何もない。あとはやりたいかどうかだ。それは、俺の知名度がどこへ到達しても変わらない。まだラップを愛している。いつだって俺にとってもっとも重要だった。まだ(ラップを)書くのが好きだし、名前を出したようなラッパーを見るのが好きだ。それで、わかった、俺もやってみようか、って気になる。内心、あれ以上できるだろうって思いながら。最良のラッパーたちがアルバムをドロップするたびに、このくそったれなゲームの景色が変わる。少なくとも、俺にとっては。それで、あんなふうにラップできなくちゃ、って気になる。もし俺がそうしなければ、あと2年くらいの間にだれかがすぐ後ろまできて、俺を押し出すだろうから。
「俺はいままでもこれからも最高のラッパーでありたいけれど、誰の曲も聞かないし、俺はアンタッチャブルだ」とかってゆったり構えてはいられない。それはダメだ、だって眠りに落ちた途端、だれかがやってきて俺の首を刈っていくから。だからこそ、俺はラップを愛してきた。いつだって進化していて、成功するにはつねに気を張って、ついていかないないといけないんだ。

https://www.xxlmag.com/eminem-interview-career-addiction/

<※補 足>

キム ; キンバリー・アン・スコット。99年と2006年に2回結婚し、いずれも短期間で離婚した元妻。ふたりの間に生まれた娘がヘイリー・ジェイド・スコット。彼女のいとこのアリアナ、異父妹のスティービーともにエミネムは養子にしている。

「スタン」;2000年のヒット曲。エミネムからの返信をひたすら待つ熱狂的なファンのスタン(stokerとfanのかけ合わせ、という説があるがはっきりしていない)の目線で話が進んでいく。エミネムの返信にあたるラスト・ヴァースで、スタンは妊娠中の彼女を乗せたまま亡くなっていたニュースを思い出し、手遅れだったと悟る。ホラーコアにカテゴライズされており、ファンダムの危うさ、エミネムは自身も一歩まちがえたらスタンと同じ運命だったと思っている点でもゾッとする。

「フォーン・タップ」;ドクター・ドレーとNasのマネージャー、スティーヴ・スタウトで企画しスーパーグループ。Nasのほか、AZ、フォクシー・ブラウン、ネーチャーで『ザ・ファーム;ザ・アルバム』を96年にリリースしたが、期待したような成果が得られず、長続きしなかった。「フォーン・タップ」は一番評判がよかった曲。

『XXL』、『ザ・ソース』、『ラップ・ページズ』、『ヴァイブ』;最初の3誌はヒップホップ雑誌。クィンシー・ジョーンズが創設者のひとりである『ヴァイブ』は、R&Bとファッションにも力を入れていた。アメリカは雑誌を年間で定期購読(サブスクプリション)すると半額以下になるシステムで、一時期、『ラップ・ページズ』以外は毎月届いていた(そうなると、案外、読まなくなるものである)。エミネムが指摘しているように、どの雑誌も最盛期はかなり影響力があった。『ヴァイブ』は一時期、発行部数85万部を誇っていたそう。ブラック・カルチャーに特化し、エミネムを含めて数えるほどしか白人のアーティストは表紙になっていない点を考えると、凄まじい数だ。

『ザ・ソース』との戦争;ヒップホップ・ジャーナリズムの草分けだった『ザ・ソース』だが、経営陣が入れ変わるごとに誌面が変わり、自身もラップするベンジーノが経営陣に加わってからのエミネム叩きは異常だった。ベンジーノは大金をかけて自分と自分が属していたMade Manをプロモートしていたけれど、曲はまったく思い出せない。エミネムとのビーフだけで有名なった人、といっても過言ではないだろう。ジャ・ルールと50セントのビーフは、ここ数年はネタ扱いになっているが、当時はデビュー前の地元のギャングが絡んだ深刻なものだった。

プルーフ;エミネムがデビュー前から一緒に切磋琢磨していたD12のメンバー。エミネムの恩人、親友であり、映画『8マイル』でメキ・ファイファーが演じたフーチャーのモデルである。本人もリル・ティック役で出演している。2006年、88マイルにあるCCCクラブでビリヤードを巡って喧嘩になり、銃撃事件まで発展して命を落とす。享年32歳。3年後、『8マイル』でキムをモデルにしたアレックスを演じたブリトニー・マーフィーが不幸な恋愛がもとで亡くなっている。こちらも享年32。

<感 想>

驚いたのがほとんど「編集」されていない文章であること。彼が語ったものを文字に起こして、整えただけではないか。何か所か同じ話をくり返しているし、トピックが飛んでいる。なにしろ、自分が賢く見えるかを気にしていない。これは、すごいことだ。人は、何かを伝えるために文章を書く。空中に霧散する会話とはちがい、わざわざタイプして形を残す。そのとき、多くの人は視点の新しさ、センスの良さ、そしてまず「賢さ」を滲ませる。なにかを伝えながら、自分はこれを記録に残す価値がある人間だと、どうしても説明したくなるのだ。エミネムは、その点を完全に放棄している。事情があって世には出ていないが、私は彼の曲を30曲以上、対訳したことがある。大げさではなく、彼のラップの対訳はほかのラッパーの3倍以上も骨が折れた。満身創痍、ボキボキである。凝っているし、難しい言葉も頻出する。なのに、この文章のエミネムはひとつも難しい言葉を使わず、なんなら居酒屋での愚痴まじりの思い出話、からの「やる気出てきたぜ!」みたいな調子で話している。とても貴重な視点から話してはいるけれど。

頭から気になった点をピックアップしていこう。エミネムのレッドマン好きは有名なので、また強調しているのは驚かなかったが、「久々にレジーさんでも聴くかー」という気分にはなった。ふたりは相思相愛である。ラップのブロマンスである。英語でいうところの「Brother from another mother(血は繋がってないけど兄弟)」状態。自分が研究した大御所の名前はなるほど、と思ったが、それより名前を出していない同世代が気になった。ジェイ・Z、Nas、バスタ・ライムズ、アンドレ3000など、「偉大なラッパー」リストの上位に必ず入るメンバーの名前がどこにもない。とくにジェイ・ZとNasはずっとアルバムを出し続け、それなりにヒット曲もあるので意識していないのは嘘だろう、と思うのだが華麗にスルーしている。ライヴァルはケンドリック・ラマーとJ.コール、ビッグ・ショーンあたりだと言い切り、トラップ勢はガン無視。比較的、知名度が低いジョーナル・ルーカスはマサチューセッツ州出身の34歳。『カミカゼ』でフィーチャーしていたから、かなり気に入っているのだろう。

00年後半のドラッグの依存症について、自分で語っているのは大きい。燃え尽き症候群くらいだと思っていたら、思ったより大変な事態になっており、ファンがヒヤッとした事件だ。2009年の秋、私は50セントに対面インタビューをした。その際、彼の最新動向について大まかにカバーしてから、思い切って「エミネムが危なかったとき、ドクター・ドレーとあなたはどこにいたのか?」という質問をした。そのときの、答えを引用しよう。

「エムはスーパースターなんだよ。スーパースターというのは、相手がその時になった時にしかやり取りができないんだ。俺たちはとてもいい関係で、仲もいいけれど、ドレーはロスに住んでいて、エムはデトロイトに住んでいて、俺はニューヨークに住んでいる。デトロイトに行ったら、俺はエムの家に泊まるんだよ。ただ、俺たちが思っているよりも(彼の状況は)ずっと悪かった。会っていた時は、まぁ、ハイになっている時もあるかな、と思ったくらいだったんだけど‥‥。俺にとって、エムは失敗しようのない人なんだ。大人になってから自分の人生に影響を与えた人というのは、ある意味、祖父母みたいな存在で‥‥俺はむしろ彼に面倒を見てもらってきた立場だし。50セントにチャンスを与えたのは、エミネムだ。彼がそうしたから他の人も続いただけで、彼がいなかったら、俺は今みたいに成功してなかったと思っている」。

bmr 2009 12月号 ※私の記事です


濁されるかな、と思ったのに、とても正直に答えてくれたため、少なからず感動したのを覚えている。50セントも、どうしても嫌いになれないアーティストのひとりだ。

50代に入る手前で、「最高のラッパーであり続けたい」と言い切るエミネム。彼も言うように、「ベスト・ラッパー」の称号は主観の問題だから、売れ枚数やチャート・アクション、グラミー賞などの受賞歴を追いかけてもあまり意味はないだろう。実際のところ、いまのエミネムの最大のライヴァルは昔のエミネムだと思う。8月に出した2枚目のベストアルバム『カーテン・コール2』も、2005年の『カーテン・コール』と比べるレビューが多く、00年代前半の旋風の強烈さを覚えている人間として、残酷に感じた。時代がちがうんだよ! と擁護したくなった。私は00年代を制したときには、あまり熱心に彼の曲を聴いていなかったのだが。わざわざCDをかけなくても、彼のラップはそこいら中でかかっていた。エミネムの甲高い声と、激しい口調に慣れるまでけっこう時間もかかったとも言い換えられる。彼が曲でくり返し「嫌いだ」と明言する音楽ライターでもある。それでも、このインタビューとは言えない記事を読んで—この記事自体が、音楽ジャーナリズムにたいする「否」ではあるが—元気が出た。エミナムが闘争心をむき出しにしていることは、なにひとつ確かではない2022年において、とっても貴重な「変わらないもの」だから。

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