・RSBC世界における日本駆逐艦の発展 「第一次大戦開戦における日本駆逐艦の発展(1914~1919)」
REDSUNBLACKCROSS日本駆逐艦概説となる第二回発表、今回は、第一次世界大戦における日本駆逐艦についてです。
ここから、史実日本とRSBC日本の歴史は、歴史改編によって加速度的に乖離していきます。当然、駆逐艦整備についてもまた、大きく変化していくことになります。
さて、第一回では合衆国に対抗するための第一歩として、新型駆逐艦の試作を進めていた日本でしたが、その経験を生かして量産を開始する直前になり、これまでの駆逐艦整備計画を急遽白紙にしなければならない状況が発生します。それは、第一次世界大戦が勃発したためでした。
史実世界の日本
史実の日本では、大陸での権益を巡って英国の関係は冷え込んでいたものの、日露戦争後も日英同盟が締結されていることもあって、連合国側としてドイツ帝国に対し宣戦を布告することになりました。
もっとも、日本にとってドイツ本国は遠く欧州にあったことから大規模な欧州への戦力展開は行われず、海上護衛戦力として1個水雷戦隊程度の海軍部隊を地中海に派遣したに留まりました。
一応、太平洋方面のドイツ植民地の制圧や、インド洋方面での船団護衛などにも関与しましたが、基本的には助力以上の作戦は行う事はなかったのです。
もっともこれは、第一次世界大戦の勃発した1914年当時において、日本海軍が保有している外洋作戦の可能な駆逐艦の数が、僅か4隻しか存在していなかった、という問題が根っこにありましたから仕方のない面もあります。ちなみに4隻とは、第一回で説明した海風型及び桜型です。
そのため、第一次大戦の参戦によって早期に駆逐艦戦力の拡充を行うべく、日本海軍が行ったのが、桜型駆逐艦の準同型艦とも言える樺型駆逐艦の緊急生産でした。
ドイツに対しての宣戦布告を行った1914年8月直後に帝国議会へ予算を通し、翌1915年の夏までに同型艦全10隻の建造を完了させ、異例の速度で航洋型駆逐艦を14隻まで拡充出来た出来た日本海軍は、ここでようやく、一応の海外作戦能力を整えることになりました。
しかし、その後は桃型、楢型といった拡大型の中型駆逐艦を10隻、磯風型、江風型といった大型駆逐艦を6隻建造したにもかかわらず、日本は第一次世界大戦へ深くコミットすることもなく、自らの艦隊戦力の拡充に邁進していました。
RSBC世界における日本駆逐艦整備計画
一方、RSBC世界は史実と異なり、日本と英国の同盟は非常に強固なものとなっていましたから、日本は連合国の一員として史実より深く大戦にコミットすることになります。
具体的には、枢軸国による通商破壊に対抗するため、小型駆逐艦──護衛駆逐艦の大量生産を行います。これはRSBC外伝の「九九九艦隊計画概論」において、第一次大戦中に護衛駆逐艦を120隻建造したとの記述によるものです。
第一次世界大戦において、史実と同様に連合国各国は、ドイツ海軍による通商破壊戦に苦しむこととなるでしょうから、船団を守るための護衛艦艇の確保は重要な問題でした。日本は、連合国の一員として護衛任務に就く駆逐艦を多数建造することで戦争に貢献しようとしたことが分かります。
幸い、大戦勃発後、英国海軍によって早々にドイツ海軍の主要な水上艦艇は港に押し込められました。こうなってしまえば船団にとって恐れるべき水上艦は仮装巡洋艦となりますが、そちらに関しては旧式化したとはいえいまだ有用な装甲巡洋艦が直衛に付くことで無力化出来ましたから、後はUボートをどうにかさえすれば良くなります。であるならば、護衛駆逐艦に必要な兵器は、対潜兵器を装備することが出来るかどうかが問題となります。
対潜作戦が主軸であれば、艦艇自体の速力や砲火力はそこまで重要ではありません。ただし、小回りは利く方が良い。
そこで、日本海軍はすでに完成している<桜>級二等駆逐艦をベースに、ごく少量の改定を加えたものを量産するのが良いと思われます。つまり、10隻で打ち切られた史実の樺型を、その後も生産を継続することで外伝に記述されている120隻の護衛駆逐艦を完成させることを目指すことになります。
<樺>級自体の量産は本編に記述に無いのですが、同級は史実でも第一次大戦末期に駆逐艦不足であったフランスが日本に発注した実績がありますから、RSBCの日本が連合国のために建造すること自体はおかしくないでしょう。
しかし、実際に120隻も竣工させることは可能でしょうか? なにせ史実でも10隻程度しか作っていないものを、その10倍以上の数で建造するわけです。
まず、建造するための造船設備について考えてみます。この時期は史実とほぼ変わりが無いため、巡洋艦級以下のドックの数や規模は史実と同様と考えてよいでしょう。
では、日本が護衛駆逐艦の量産に入るのはいつ頃かを予想しましょう。
史実でフランスがアラブ級駆逐艦(樺型の準同型艦)を発注するのは1916年です。実際の建造は翌年からですが、建造計画の準備が始まったのは同年からとするのが自然です。
つまり、それまでは駆逐艦の建造は史実同様、押さえられたままということになります。その間は駆逐艦の代わりに、「九九九艦隊計画概論」で記述のあった戦時標準船などの商船等を建造していたと考えるべきでしょうか。
さて、1917年2月になるとドイツ海軍は再び無制限潜水艦戦を開始しますから、ここから全力で建造が開始されることになるでしょう。その後は大戦の実質的終結を迎える1918年一杯まで継続されるでしょうから、実質この2年間でに100隻以上を竣工させる必要があります。120隻の樺級の内、史実通り10隻はすでに完成しているとした場合、残りの110隻を起工させる計算です。
この場合、年間で55隻作らねばなりません。史実において進水まで3ヶ月半、艤装で1ヶ月半という竣工までに5ヶ月というペースであった<樺>級ですから、ドックと艤装岸壁での作業を別の場所で行うとすれば、1ラインで年間3.5隻の建造が可能となります。となると、計画完遂には16ラインが必要な計算となります。
史実ではアラブ級の建造に当たっては、横須賀、佐世保、呉、舞鶴の各海軍工廠においてそれぞれ2ラインが用意されています。また、川崎および三菱造船でも2ラインの確保がなされていました。
これに加え、<樺>級の建造を行っている浦賀ドックと大阪鉄工所がそれぞれ1ラインを動員することが出来ますので、14ラインを用意出来ます。
問題は残り2ラインをどうするかですが、RSBC世界では<飛龍>級航空母艦の4番艦として<天龍>が存在しており、名称がそちらで採用されている以上、<天龍>級軽巡洋艦の建造が行われていない可能性が高いです。そのため、本来そのために使用するドックも護衛駆逐艦製造に回すことが可能となります。以上を受け、樺型駆逐艦の建造では以下の通りとなります。
横須賀海軍工廠 3ライン
佐世保海軍工廠 3ライン
呉海軍工廠 2ライン
舞鶴海軍工廠 2ライン
川崎造船 2ライン
三菱造船 2ライン
大阪鉄工所 1ライン
浦賀ドック 1ライン
合計16ライン
なお、これ以上の動員は呉及び横須賀では同時期に<長門>級戦艦が、川崎、三菱では<伊勢>級戦艦の建造も平行して行われていますから不可能でしょう。軍艦の建造という視点からは、おおよそ限界に近い動員体制になっているのではないかと思います。
では予算上はどうでしょうか? 駆逐艦とはいえこれだけの数を作るには大量の予算が必要です。
<樺>級の建造費は1隻約100万円とありますから、単純計算で120隻では1億2千万になります。(ここでいう建造費は船体価格だけのものですが、簡易化するために使用しています)
これに対しRSBCでは、八八艦隊計画における巡洋艦以下の艦艇の建造計画を大幅に改定して対応しています。これを念頭に120隻も駆逐艦を建造する予算が取れるのか、検討してみましょう。
樺型10隻 起工1915年 1隻100万 合計1000万
桃型4隻 起工1916年 1隻140万 合計560万
楢型6隻 起工1917年 1隻150万 合計1000万
樅型21隻 起工1818年 1隻150万 合計3150万
磯風型4隻 起工1916年 1隻200万 合計800万
江風型2隻 起工1917年 1隻200万 合計400万
峯風級15隻 起工1918年 1隻200万 合計3000万
天龍級2隻 起工1919年 1隻450万 合計900万
以上が、史実で建造された艦艇からざっと計算した結果です。
まず、中型駆逐艦についてですが、<桃>級は建造時期から見て転用は間に合わないでしょうから史実通りのスペックで建造されるでしょう。一方、<楢>級、<樅>級は時期的に予算の転用が行われるとみて良いのではないでしょうか。
大型駆逐艦については、<磯風>級の予算転用は難しい時期ににあたります。このため、そのまま建造計画を通すのもありなのですが、ここは戦時標準船などの建造が優先されたとして2隻の建造で押さえられた、としておきます。
一方、<江風>型は起工が1917年のため予算転用可能な時期であることから生産は中止としておきます。
また、先に述べましたが、<樺>級の量産のために建造ドックを確保出来なくなる<天龍>級軽巡洋艦も予算削減対象と考えて良いでしょう。
以上を合計すると、補助艦予算の内、5850万を転用することができる計算になります。これで<樺>級は58隻の追加建造が出来ることになり最初の10隻と合わせて68隻の護衛駆逐艦を日本海軍は自前の予算で用意することが可能と分かります。さらに、これに史実で建造されたアラブ級の12隻が加わり80隻となります。
しかし、残り40隻についてはどうにもなりません。やむをえませんが英国に購入して貰う歴史改編を行うべきでしょう。
以上を考えれば、<樺>級の生産内訳は以下のものとなるのと思います。
初期型:第一次大戦の勃発を受けて建造された最初期の10隻
後期型:大戦後半の船団護衛のために建造された対潜武装増備型58隻
アラブ級:フランスに売却された後期型12隻
コロニー級:仮称。英連邦に売却された後期型40隻
ご都合主義的にも思えますが、とにもかくにもこれでRSBC世界の日本は、戦時中における艦艇の大量生産といった問題に向き合ったという経験を得る事が出来ました。これは、以後の経済発展においての重要な要素として繋がっていくことになります。
一方で、量産体制構築の経験と引き替えに、新技術の取得という点では後れを取る可能性があります。これを埋め合わせるには、かつて海風級を建造したような、試作となる大型駆逐艦を作り、運用経験を積む必要があります。
史実では磯風型、及び江風型として6隻が建造されていますが、RSBC日本では最低限度となる2隻をここで建造するとします。この役目を担うため、ここでは先の中で上げた2隻だけ建造が行われたとする<磯風>級をその役目を担わせることとします。
この主要な目的は、主に革新著しいタービン設計で設計、製造技術についての経験を獲得しておくことです。
なお、この際、同級の名前を日露戦争の敗戦で拿捕出来なかったことから浮いてしまった<敷波>の名前を当てることくらいは許されるでしょうか。そして、彼女の妹には日露戦争の敗北で予算の流れた1906年度建造分の<神風>級の名前を流用し、<浦波>としてみるのもありでしょう。この場合、RSBC世界の中では特型駆逐艦の名前として両者は採用されなくなりますが、代艦建造が行われる1930年代後半に<陽炎>級の一隻として艦名を受け継がせることが出来ます。そう、<陽炎>級に何故か存在する<浦波>の理由とすることが出来るのです。
まあ、<浦波>うんぬんについてはお遊びのようなものですからさらりと流しておきましょう。
さて、こうした一連の状況を経て日本は1919年を迎え、戦争を終わらせるための戦争がようやく終わりを迎えることになります。他国と共同で戦う初めての総力戦は、長期戦を戦うための多くの貴重な経験を日本に与えることになりました。
ですが、成功の裏には失敗があります。駆逐艦を初めとする軍艦建造において将来に繋がる貴重な経験を得た日本でしたが、その反動として現在の保有戦力はいびつな状態となっていたのです。それが分かるのがこの表です。
1919年度における航洋型駆逐艦(グラフ1目盛り5 端数切り上げ)
・史実日本
大型駆逐艦 ◇◇◇▼▼▼ 8+15
中型駆逐艦 ◇◇◇◇◇▼▼▼▼▼ 22+21
・RSBC日本
大型駆逐艦 ◇▼▼▼ 4+15
中型駆逐艦 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 68+0
(竣工 ◇:45cm魚雷艦 ◆53cm魚雷艦
建造中▽:45cm魚雷艦 ▼:53cm魚雷艦)
史実と比べ、長門級戦艦がすでに竣工している状況にもかかわらず、数はともかく打撃力のある駆逐艦戦力の整備が圧倒的に遅れていることが分かります。
第二期の総轄
この時期のRSBC日本は、史実と異なり、同型艦の大量の艦艇建造という後の経済発展に繋がる経験を得ることになりました。
これにより、日本海軍は、将来における総力戦を戦うための準備を、整えることが出来たことになります。
しかし、新たな問題も発生しました。将来はともかく、現在の保有する駆逐艦戦力では、艦隊決戦を戦えないことが示されたのです。
かくしてRSBC日本は、これを改善するため、新たな駆逐艦整備計画を推し進めることになります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?