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・RSBC世界における日本駆逐艦の発展 「第二次世界大戦における損害と、それに対応するための駆逐艦整備(1939-1942)」

 RSBC世界における日本駆逐艦の発展と変遷、考察発表の第4回その2となります今回は、第二次世界大戦における損害と、それに対応するための駆逐艦整備についてシミュレートしていきます。皆様、宜しくお願いします。

 さて前回では、第二次世界大戦に参戦することになった日本が、対独戦のために欧州に遣欧艦隊を、インド洋には遣印艦隊を展開させる一方で、主力部隊を日本本土に留め流動的な戦局への対応を行う事になるだろうと考えられました。

 これにより、遣欧艦隊は英国の本土脱出──ダンケルク作戦に参加したことを皮切りに地中海東部での作戦を行う一方、遣印艦隊はインド洋に展開して中東方面の英軍支援を行うことになります。

 この際、RSBC本編では中東で20隻以上の艦艇が失われた、との記述があります。日本艦隊は英本土近海、南大西洋、地中海、そしてインド洋などの海域でも様々な戦闘が行われ消耗することとなるでしょうから、ここでわざわざ『中東で』と記述されているかを考えるならば、この地での損害が最も大きかったからと考えるのが自然と思われます。

 中東地域では各種艦艇の内、<古鷹>級と<青葉>級の半数や、陸地に乗り上げた5500t級軽巡などがいますから、これらを20隻以上とある損害の内訳に入れて考えた場合、最も被害が集中する駆逐艦は残りの戦没数の大半となるでしょう。この場合、15隻程度の駆逐艦が失われたのではと想像出来るでしょう。これに、その他の海域で中東での損害の半数程度を沈められたと仮定してみると、合計で20隻強の駆逐艦が第二次大戦中に失われたと考える事が出来ます。
 ここでは仮に23隻が戦没したとしておきましょう。

 さて、簡単に23隻の損害と言いましたが、これは日本海軍がWW2開戦時に保有していた大型駆逐艦の約50%、護衛用途の旧式艦を加えてもおおよそ25%を失った事になります。これはとんでもない数字です。

 こうした損害を受けながら、日本は世界の裏側に存在するドイツを相手に、第二次世界大戦を継続することになります。日本駆逐艦が対独戦で大きな損害を出したのは、簡単に言えば対米戦を想定した水上戦闘を重視した駆逐艦整備が行われていたためでした。
 対独戦では日本駆逐艦の主要な任務は、商船を襲ってくるドイツ潜水艦と、急降下爆撃機の排除でした。
 対米戦に備えて高い対艦戦闘能力を持っていたものの、対空、対潜能力は標準的なものであった日本駆逐艦は、ドイツ軍を相手にするのはあまりにも相性が悪かったのです。

 かくして日本は、この教訓から、以降の駆逐艦を対空、対潜能力に優れるタイプのものとして整備に邁進することになります。

 またその一方で、戦時の損耗を補充し、駆逐艦部隊を拡大していくため多くの数を短時間で急速に建造する必要もありました。

 それでは、こういった様々な事象を元に、本編の記述を見直しつつ、第二次世界大戦中における日本海軍はどのように駆逐艦を整備していったかを考えていきましょう。

日本海軍の各年度事の対応

 まずは、第二次大戦の開始された1939年度についてです。
 この年は、1937年より行われていた陽炎級駆逐艦の整備に続く、新たな駆逐艦の建造を行う必要が出てくる年です。史実で言えばマル4計画がこれに当たります。
 このとき史実では島風型駆逐艦が建造されていますが、RSBC世界でも史実と同じ年である1943年に<島風>級のネームシップが竣工していることが述べられていますから、RSBC世界でもマル4計画では<島風>級の建造が行われていると考えられます。
 しかし、18隻の同型艦が存在するとされている<陽炎>級のみでは1942年度まで建造がひっぱることはあり得ないでしょう。この場合では<陽炎>級の建造ペースは史実より遅いものとなってしまいます。そのため、<陽炎>級と<島風>級の間に別の駆逐艦クラスが存在するであろう事が想像出来ます。
 そこで史実を元に、改陽炎型である夕雲型相当の艦(仮に<秋雲>級、および<夕雲>級、としておきます)をこの年から建造を開始されると考えることとします。

・この年の建造駆逐艦
 陽炎級5隻、秋雲(改陽炎級、単艦)、夕雲級(2隻)が起工される。

 さて、続く翌1940年です。この年は作中の記述により前年の末に九九九艦隊計画が立てられることが確定しています。
 この計画は対独戦のため、今後10年で戦艦、空母をそれぞれ9隻新造し、旧式戦艦9隻に改装を施すというものですが、これに加え300隻以上の補助艦──巡洋艦以下の艦艇──をあわせて建造するという野心的なものでした。
 この際、補助艦における300隻の内枠を考えるならば、巡洋艦クラスが40隻、駆逐艦が120隻、海防艦100隻、潜水艦が50隻程度になるでしょうか。
 かくして九九九艦隊計画の実働により、これ以降の駆逐艦の建造計画も大幅に変更されることになります。
 とはいえ、駆逐艦の整備に関してだけ見れば、この年についてはそれほど方針は変わりません。建造隻数及び速度自体は加速されるでしょうが、すでに起工済み、あるいはされる予定である<夕雲>級および、<秋月>級の建造自体は止める要素がないからです。
 なおこの年の中頃には対独宣戦が行われ、日本は戦争へと乗り出すことになります。

・この年の建造駆逐艦
 艦隊型駆逐艦として夕雲級(8隻)と秋月級(2隻)が起工される。
 なお、船団護衛戦力としては別途海防艦の建造が開始されている。(以下省略)

 そして、大改訂の年となる1941年を迎えます。
 昨年秋、英国が本国を失った事を受け、前年末に日本は九九九艦隊計画最初の改定を行い、英国支援のために大量の小型駆逐艦の生産を行う事が計画されます。その実行の年が1941年です。
 英国の本土失陥により大損害を被った英国海軍の支援のため、日本はまず大量生産を第一義に置く、性能を妥協した艦隊型駆逐艦の建造が必要となってきます。
 史実では駆逐艦の消耗を支えるべく、量産性の高い松型駆逐艦が計画、建造されることになりましたが、RSBC世界でもこれと同様に、同程度の性能を持つ駆逐艦が設計され、大量に製造されることになるでしょう。
 ただし、後に護衛駆逐艦として1945年から<松>級駆逐艦が生産されますから、ここでは植物名を使わない、通常の一等駆逐艦名を持つ小型駆逐艦が生産されたこととします(仮に、未成艦名から流用して<北風>級駆逐艦として設定しておきます)。
 同クラスは、今後数年にわたって英国へ供与される一方、日本も海上護衛隊用の戦力として多数──具体的には第二次大戦後も含め60隻以上が建造されることになるでしょう。
 その反面、この年に起工予定であった<夕雲>級の増産計画は取りやめられ、予算は<北風>級に振り換えられることになります。
 その一方で、重雷装の<島風>級の建造は続行されます。これは作中で16隻建造の計画が4隻で打ち切りとなったとあるからの措置ですが、ここではすでに機関その他は発注されており、流用出来ない状態であったことから本年度分のみ建造されたとして作中の記述に合わせることとします。
 なお、<秋月>級の生産はこの年も継続されます。対空能力の高い駆逐艦の存在は、ドイツ空軍から艦隊を守るには必須のものであるからです。
 なお、英国支援のために<北風>級が量産される一方、喫緊の措置として睦月級を初めとする旧式駆逐艦の供与も行われることとなります。これにより、一時的に低下する海上護衛能力は前年から続く海防艦の量産によって賄われることになります。

・この年の建造駆逐艦
 夕雲級(1隻)、島風級(4隻)、北風級(18隻)と秋月級(4隻)が起工される。

 そして翌1942年を迎えます。
 この年は、一方的なドイツの休戦宣言により日英両国にとっての第二次大戦が終了する年です。史実では超甲巡を初めとする各種艦艇の建造が計画されるマル5計画とされる艦隊整備計画が行われた年となります。
 日本は、戦争が急遽終わったことで、駆逐艦──というより海軍艦艇全ての建造計画に再度大きな変更が行われることになります。
 駆逐艦不足に悩む英国への供与艦として製造中の<北風>級は建造が継続される一方、艦隊防空用の<秋月>級も追加発注された分が建造継続となります。
 その一方で、汎用の駆逐艦として<夕雲>級、<島風>級に変わるより大型の駆逐艦を登場することを考える時期となっています。

 そう考えるのは、<島風>級が作中では1943年に竣工するものの、わずか4隻しか建造されていないことと、およびその次の艦隊型駆逐艦として登場する排水量5000トンクラスの<妙風>級駆逐艦(12.7センチ連装砲等を4基搭載)が速くとも1945年以降から完成することが記載されているためです。先の<陽炎>級と<島風>級の間に何らかの駆逐艦が存在するであろうと言えるように、ここでも<島風>級と<妙風>級の間に建造期間が大きく空いていますから、その狭間に何らかの駆逐艦が存在しているであろう事が予想出来るのです。
 この状況を考えるに、未確認の駆逐艦は<妙風>級駆逐艦へ繋がるデザインを持ちつつ、武装は同配置の駆逐艦を設定するのが良さそうに思えます。
幸い、史実のマル5計画では秋月型をベースにし、僅かに拡大した船体へ島風型の機関を搭載した、連装の長10サンチ高角砲を4基8門と六連装の魚雷発射管を持つ駆逐艦が計画されています。いわゆる、改秋月型と呼ばれる駆逐艦です。そこで、この3000トンオーバーの駆逐艦を<島風>級と<妙風>級との間に存在する艦隊型駆逐艦として建造されたとします。とりあえず仮名として、この艦は以後史実の護衛艦から<春風>級と命名しておくことにします。
 後の<妙風>級駆逐艦は、<春風>級駆逐艦の主砲を九八式10センチ高角砲から五式12.7センチ高角砲へと換装し、それに合わせて船体を拡大させた駆逐艦として設計されたというストーリーが付属されるでしょうか。

・この年の建造駆逐艦
 北風級(28隻)と秋月級(6隻)、および春風級(4隻)が起工される。

第二次世界大戦を戦って

 さて、ここまでの内容により、第二次大戦の結果として以下のことが言えると思います。
 まず、第二次大戦に参戦した日本は、毎年おおよそ10隻前後の艦隊型駆逐艦と、その倍の小型駆逐艦の量産を行っています。これらの艦が竣工するのは、第二次大戦末期、あるいは戦争終結後のことでした。
 これにより、世界の各地で20隻以上の駆逐艦を失うことになった日本でしたが、その損耗を新造の艦隊型駆逐艦で穴埋めを行う事が可能でした。
 被害の充当の結果とはいえ、日本駆逐艦の主力は、新戦力へと急速に置き換わる事成功したのです。
 その一方で、前年の睦月型の供与を初めとする英国海軍への支援によって、船団護衛をおこなう駆逐艦の数は減少傾向にありました。量産性の高い小型駆逐艦や、対潜能力を重視した海防艦といった船団護衛兵力は続々と完成しはじめてはいましたが、それでも決して安心出来るような規模ではなかったのです。
 これを受け船団護衛用途の艦として、海軍休日期に建造され、現在は旧式化してしまったかつての艦隊型駆逐艦の護衛艦化が検討され、改装の準備がなされるようになります。

 さて、次回は1943年から1947年までの、第三次大戦勃までの戦間期における日本駆逐艦の整備と、対独再戦時の戦闘序列を考察していこうと思います。

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