【雑文】生前葬の是非
自分が死んだ後の世界のことを考えたことのない人はいないと思う。
残された家族はどうなるのだろうというような誰か他人への想いから、貯めていた貯金が勿体ないとか、PCの中身を見られたらどうしようといった極めて個人的な悩みまで、自分の死後の心配は尽きることはない。
もちろん僕自身も(特に若い頃に)そうしたことを考えたことはあるし、これまで何人かに、自分の死後のことを考えたことがあるかと尋ねたところ、全員があると答えていた。
本来なら自分が死んだあとのことは、全てノーサイドであって、もはや自分とは何の関係もない事柄のはずだ。PCの中の恥ずかしいファイルを見られたとしても、そのことによって恥ずかしがる自分はもはや死んでいるのだから、それ以上何も起こりようもない。
それなのにどうして人は死後のことを考えてしまうのだろう。
哲学者のハイデガーは、そうした「人はやがて死にゆく存在だ」ということを自覚することを「死への先駆的決意性」と呼んだらしい。
自分の死を見つめ受け入れて、先駆的決意性を持つことによって、限りある人生をより良く生きられるようになるのだ、と。
荒い要約だけれど、こんなことを言っていたそうだ。
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終活という言葉が言われるようになって随分久しい。
終活というのは、読んで字のごとく、自分の人生の終わりに向けて、身辺整理をしていくような活動のことをいう。
例えば遺言を用意したり、財産を生前相続等で整理すること。あるいは社長的な立場の人であれば、自身の後継者を育成して、事業継承をすることも終活のひとつなのだと思う。
自分の死後残される人のことを考え、面倒を掛けないように配慮するというのは、実に立派なことだと思う。
そうした終活の一環として、数年前に少し話題になったものが生前葬だ。
生きているうちからお葬式を行い、生前親しかった人やお世話になった方々に直接お礼をいう儀式。有名なところでは漫画家の久米田康治や、ビートたけし、桑田佳祐も生前葬を行っているそうだ。
確かに自分が死んだ後に葬式をやったところで、来てくれた人と話をすることはできない。であれば、死ぬ前に来てもらって自分の言葉で別れを告げることは、有意義なことだと言えるだろう。
だが、それでも僕は、生前葬に対してどうしても否定的な印象を持ってしまう。
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生前葬は、人気者にだけ許された特権だな、と思う。
前述の有名人たちの生前葬では、話題になったことも手伝って、非常に多くの人が訪れたそうだが、もし僕が生前葬を開催したとして、一体だれが来てくれるだろうか。
家族や親しい友人は来てくれるかもしれないけれど、総数で言えばきっと相当少ないだろう。
実際の葬式でも、大して親交のない人の場合は出席することすら億劫だというのに、生前葬と銘打って行われた式典に行きたいと思うはずもない。
一般人にとっては、生前葬に限らず通常のお葬式においても、故人との縁が薄い人が突然出席することは基本的にあり得ない。
多分来てくれないだろうなと思う人は、恐らく本当に来ない。サプライズ的な喜びはお葬式には無いはずだ。
そうであれば起こり得るパターンは、「来て欲しい人がちゃんと来てくれる」場合か、「来て欲しいと思っていた人なのに来てくれなかった」という場合の二種類しか無い。
自身の人望に対する失望が生まれる場所。それが一般人にとっての生前葬なのだと思う。
確かにネタとしては面白いとは思うけれど、文化として定着することは恐らく今後もないだろう。
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