【雑文】合理が通れば情緒が引っ込む
すっかり有名になったアマビエという半魚人。
ほんの1か月前くらいまで、ほとんどの人がその存在すら知らなかったのに、いまやすっかり一般語のようになっていて、ついには厚生労働省の発表でアイコンに使われたりもしている。
アマビエは元々は妖怪だったようなのだけれど、今はもうすっかり神さまのような扱いを受けている。
なんというか、日本にいる八百万の神さまというのはこういう風に増えていったのかなと思うと、少し感慨深い。
ところで、こうした神頼みの類を本気で信じているというひとは、この現代日本ではかなり少数派だと思う。
大昔はもっと宗教と人との距離が近かった。だから、神的な存在に救われる経験というのも、普通にあったことなのだと思う。
でも今はもうそういう時代ではない。
科学が発言力を増して、神秘体験はどんどん隅に追いやられている。
もちろん人にもよるだろうけれど、神頼みをするとき僕たちは、本当に神さまが状況を変えてくれるとは思わない。
それでも、僕は決して神頼みに意味が無いとは思わない。
合理的な考えを突き詰めていけば「無駄」以外の何物でもないけれど、文字通り「気休め」としての一定の効果はあると思うからだ。
どちらかと言えば神頼みは、神さまに願いを託すというよりは、自分自身の精神安定のためにするものだ。
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初詣のときくらいしか行かないという人も多いだろうけれど、僕たちは神社に行くとお参りをする。
手水場で口と手を清めたり、二礼二拍手一礼をしたり。そして、お賽銭を入れてお願い事をする。
だが、ふと冷静になると考えてしまう。お賽銭とは一体なんなのだろう。
さっきも言ったが、願い事をすること自体に効果はないのだから、そこでお賽銭を入れようが入れなかろうが願いが叶う可能性は変わらない。
それどころか合理的に考えるなら、たとえ少額であってもお賽銭を入れない方が金銭的には「得」だ。
そもそもお賽銭とは何か。
一番わかりやすいのは、願いを叶えてくれることへの「対価」だ、という考え方だ。
だが、願いは叶わないのだから、初めから対価を払う必要すらない。
日本の神さまは、唯一絶対の全智神ではない。それぞれに得意分野がある八百万の神だ。
だからそれぞれの自社仏閣によって、それぞれの効果が違う。
病気を治したいとか試験に受かりたいとかお金持ちになりたいとか。あるいは縁切りのようなブラックな分野で活躍する神さまだっている。
それでも、得意な分野であっても失敗することの方が多い。
叶わないことの方が圧倒的に多いし、もし偶然に成就することがあったとしても、それは決して神さまの手柄ではないはずだ。
だから結果として、対価だけ取られて契約は果たされない。
そもそもお賽銭の金額が5円や10円というのは少なすぎるのではないかという気がする。
子供のお駄賃だって今時もっと高いだろう。
もしお賽銭の金額が安い理由が、願いの叶う確率があまりにも低いからそれほど金額は出せない、ということなら、それは余りにも神さまを舐めている。
例えば、プロのデザイナーに頼めば確実にカッコいいロゴを作ってもらえるけれど、対価は高い。一方で、素人デザイナーのような人に頼むなら、良いデザインを出してくる確率は低いけど、その分安価だ。
少額のお賽銭で不躾な願いを投げつけることは、神さまを素人デザイナー扱いするということなのではないだろうか。
*
とはいえ、僕はお賽銭を否定しないし、実際お参りをするときにはお賽銭を入れる。
ただ、そのとき上に書いたような合理的な考えは頭の片隅にも無い。
それは昔からの風習だし、大切な日本文化だから、僕はお賽銭を入れるのだろう。
合理が通れば情緒が引っ込む。
合理的を突き詰めるだけでは、きっと何だか味気ない。
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