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エモーショナルで無駄な会話

 少し前にファイナルファンタジー7のリメイクが話題になっていた。言わずと知れた名作RPGが超美麗グラフィックで生まれ変わる、ということで世間での注目度も高かったのだろう。
 残念ながら僕はハードを持っていないので、多分プレイすることはないだろうけれど。
 
 僕はゲームが好きなのだけれど、多分それは世代的なこともあると思う。
 物心がついたころからファミコンが身近にあって、成長とともにスーファミ、64、プレステ、プレステ2と着実にステップアップをしてきた。
 そんな中でもファイナルファンタジーとドラゴンクエストは、日本のRPGを代表するゲームということでやはり別格の扱いを受けていたように思う。
 僕もプレステ2辺りまでは、おそらく両シリーズ全てをプレイしていると思う。

 確かドラクエ5だったと思うのだけれど、その中に妙に印象に残っている場面がある。
 
 それはとある街のことなのだけれど、街の奥に進むために道具屋の店内を通り抜けしないといけない道がある。そこを通り抜けしようとすると店主が主人公を呼び止めて言うのだ。
「ウチは通り抜け禁止だよ。通りたければ何か買っていきな!」と。
 
 今書き出していても別になんてことのないイベントだ。実際には購入画面が開かれるけれどキャンセルすればそのまま通り抜け出来る。ゲームの進行上、一切必要ないイベントなのだけれど、どうしてかそれが記憶に残っている。
 ああ、きっとたくさんの人が、一日に何度もこの道を通り抜けするんだろうなぁ。店主は初めのころは黙認していたけれど、流石に堪忍袋の緒が切れて、今では客にそんな要求をするようになってしまったんだろうな。
 と、そんな想像が掻き立てられる。
 
 僕が最も大好きなRPGは、MOTHERシリーズだ。
 MOTHERシリーズには上のドラクエの比では無いくらい、無駄なイベントや会話が頻出する。むしろそうした無駄な描写自体がマザーシリーズの最大の魅力で、他のゲームと一線を画する点なのだと僕は思う。
 無駄な描写によってキャラクターたちが生き生きと活動する様が感じられ、まるでそこに本当に存在しているかのようなリアリティを感じるのだ。
 
 多分、リアルさを作っているのは、こうした『無駄さ』なのだろう。

 現実世界は、実際には無駄なことばかりである。僕たちは毎日、特に意味のない会話をするし、意味が通らなかったり矛盾している行動もいくらでもとる。
 よく言われることだけれど、会話は”情報”だけを伝えているのではない。僕たちが真に伝えようとしているのは、情報に含まれる”感情”なのだ。
 
 いわゆるコミュ障と呼ばれる人たちの中には、こうした感情的な会話を本当に苦手にしている人がいる。僕もややその傾向があると自覚しているのだけれど、気を抜くと、つい情報だけを伝えようとしてしまう。

 だから日常的な会話が非常に無駄なものに感じて、何を話せばいいかわからなくなってしまう。なんとか話題を絞り出して会話を続けようとしても、情報を伝えることが優先された結果、相手の望む返答をできず会話が詰まってしまう。あるいは、情報だけを伝えるせいで、冷たい印象を持たれてしまう。
 そんな経験、きっとわかってくれる人がいるはずである。

 僕は小説を書くのだけれど、この傾向は小説にも顕著だ。
 
 無駄な会話というものが苦手なので、日常シーンを書くときには本当に苦労している。何気ない会話シーンを描写しているときでも、どうしても意味のあることを書かなければならないという気持ちになって、最短距離で物語を進めようとしてしまう。
 
 世のストーリーテラーの中には、何一つ事件が起こらない、ただの日常だけを延々書き続けられるひとがいて、心から尊敬している。ライトノベルの、特にラブコメジャンルの作品にはこの傾向が強いのではないだろうか。
 
 僕もいつまでも苦手意識を持っていてはいけないので、いずれ克服したいとは思っている。だが、どのように訓練すれば、その練習ができるのだろうか。
 きっとそれは、現実世界で無駄を積み重ねていくこと以外にないのだろう。
 
 無駄を楽しむというのは、実は案外難しいことなのかもしれない。
 
 
 

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