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ルーチン化する日々

 
 
 noteに投稿している記事は、いつも投稿日の前日に書くようにしている。
 食事や入浴や家事などの一日の雑事をすべて終えたあと、大体23時頃から書き始めて、30分少々で書き上げて、それから眠る。
 次の日起きてから、朝食を食べながら軽く推敲して、それから投稿する。
 
 そんなルーチンで、なんとか今日まで連続投稿を続けてきたわけだ。
 
 ところがそれは平日の話で、休日になるとこのルーチンは途端に崩れてしまう。
 特に今は休日だからといって気軽に出かけられるような状況ではないので、昼間から暇を持て余してしまう。
 
 というわけで、今この文章は土曜日のお昼に書いている。
 
 僕は平日は24時に寝るようにしているので、noteの記事も、緩やかに時間に追われるように書いている。
 休日の今日は特に時間の期限はないので、伸び伸びと自由な気持ちで書けそうなものなのだけれど、不思議なことになかなか筆が進まないので困っている。
 
 思うに僕がこれまで投稿してきた記事は、その日一日生活をしながら考えたことをまとめる形で書いたものだったので、今昼間に書いているこの文章は何も書くべき内容が思いついていないということなのではないだろうか。
 つまりまだ僕は、今日という日に何事も考えていないということなのだろう。

 ルーチンといえばまず思い浮かぶのはイチロー選手のバッティングフォームだ。イチロー選手は打席に入るときに必ず、バットを投手に向けて構えながら右腕の袖をたくし上げるような動作を行う。
 こうしたルーチンは、精神を普段通りの状態に落ち着けて、最良のプレイをするために行うものだろう。
 
 ルーチンは何もアスリートのような特別な人だけがすることではない。どんな人であれ、多かれ少なかれ誰もがルーチンを持っていると思う。
 起きる時間や、起きてからの身支度の順番、家を出る時間、会社への通勤路、途中のコンビニで買うコーヒー等々。
 気づけば僕たちは同じことを繰り返すことで、日々をルーチン化している。
 
 『繰り返しの日々』というのは、マイナスの印象で捉えられることが多い。
 退屈やマンネリ、飽きといったニュアンスで語られる言葉なのだと思う。
 
 だが日々を繰り返すことは悪いことばかりではないと思う。
 自分なりのルーチンを作り、人生を日常にしていくことは、ストレスを軽減することにもなる。
 雑事に割く労力を減らすことで、脳のリソースを有効に使えるようになる、という気がしている。
 
 それがどんな仕事なのかは分からないが、例えば毎日違う現場に派遣されるような仕事をしていたとする。
 毎日行くところも、行く時間も、行う作業も違うような仕事。それはきっと新鮮で飽きることはないだろうけれど、その分精神への負荷もとてつもなく大きいと思う

 自分のルーチンを持つことは人生を円滑にすすめるための方策のひとつなはずだ。
 
 けれどかといって、完全に生活をルーチン化してしまっても、それは辛い。
 かつてのドイツの哲学者カントは、異常に規則正しい生活を送っていたらしい。カントはあまりにも正確な生活をしていたので、近所のひとたちは散歩をするカントの姿を見て時計の調整をしていたとか。
 多分一般人がそんな生活を送ろうとすれば、多分精神が死んでしまうと思う。
 
 当たり障りのない結論になってしまいそうだけれど、結局のところ大切なのはバランスなのかなと思う。
 適度に繰り返す日々の中に、適度に新しい刺激が起こる。そうして人は健全に生きていくのだろう。
 

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