快楽に身をゆだねて 山田尚子『彼が奏でるふたりの調べ』

 下記の文章は3月に開催した山田尚子監督作『彼が奏でるふたりの調べ』の鑑賞会に参加していただいた方たちに配布したものである。

 アニメーションを見るということは仮現運動によって齎されるその錯覚に身をゆだねるということである。身をゆだねなければアニメーションは遠く離れていく。しかし人類はその錯覚を知覚の誤作動とし、嘘の運動であると断罪し憚らない。または作品を時代や社会の表象として見たがる。現実の持続する時間が真でありその真なる運動が唯一無二であるならば、錯覚による快楽は単なる現実(あるいは時代、社会)から逃避する欲望でしかないのであろうか。今必要なのは錯覚を素直にありのままに受け止めること、嘘の運動=フィクションを信じるその信仰を貫くことでアニメーションへ少しでも近づきたいというその姿勢ではないか。仮現運動へ視線を向け、その錯覚の眩暈に酔いしれたいというただそれだけのことをすべきではないのか。

『彼が奏でるふたりの調べ』はそのような肯定を後押ししてくれる気がしてならない。この作品のアニメーションは絶対的に優れている。この作品には目立った活劇のカットはないしまた目立った芝居のカットもない。しかし冒頭の数カットを見ればアニメーションの優秀さは火を見るよりも明らかだ。主人公の上司のほっぺたのタプタプ感や宙に舞う書類の動きに予期せぬ快楽がある。あるいはベッドに飛び込みやわらかく膨らむあの瞬間。『リズと青い鳥』におけるポニーテールの動きに思わず感動してしまうように、この作品のキャラクターの動きにも同じような感動を覚えてしまう。

この作品に、これまでの山田尚子が監督した作品との類似点は容易く指摘することができる。冒頭の床に散らかる書類を見ると『けいおん!』を思い出すし、真横から捉える自転車の走行に『聲の形』を思い出すだろう。その他にレコードの存在、飛翔する鳥、花々、相変わらずの被写界深度の浅さなど枚挙に暇がない。だがそれらの類似はさほど重要ではない。この作品において決定的に重要なのは、キャラクターを厳密な解剖学に基づきデザインすることよりも、フランク・トーマスが言うところの「アニメーションの活力」が漲っていることだ。骨格的よりかは軟体的に、単調よりも緩急を、写実的よりも誇張を、そのような作画の記述に、動きの正解などないのにも関わらず、これしかないという正しさを見る者に与えてくれる。

あえて人物の配置をはずしそのカットを連鎖させることを好む山田尚子のコンテの描き方に人は目を奪われがちだが、ここぞという場面で唐突に挿入される正面に人物が配置された瞬間のカットの効果は素晴らしい。中盤の体育館の演台の上で仰向けにごろりと寝そべる主人公のたまみのカットが特にそうだろう。それまで画面の端っこに配置されることの多かったたまみだったが、このカットではたまみを真横から捉えている。そして、その瞬間に彼女の着ていた上着のジャージのお腹が風船のようにぷくりと膨らむ。このアニメーションの予期せぬ快楽。これは絶対的に素晴らしい。

お腹がぷくりと膨らむたまみのお腹はまるで軟体動物のようだ。人間的な骨格を感じさせない瞬間が所々見られるのは、キャラクターデザインの秀逸さのおかげももちろんあるが、彼女という「存在」にうねうね且つくねくねとした動きを与えているからだ。後夜祭で彼の手を繋ごうとするもクラスメイトの女子の介入により叶わなくなった瞬間の彼女の手の動きを見よ。そこには確かに軟体動物としての「存在」を感じ取ることができる。一方でもう一人の登場人物である梶谷凛はそれほど動きに軟体さは感じられない。むしろ彼の指の骨格の描き方に注目すべきだ。そこにたまみと彼の対照的な関係性が浮かび上がる。軟体的と骨格的。ふたりは男女として真逆なのではなく、動物として真逆であるかのようだ。軟体動物の「存在」であるたまみはがっしりとした骨格に、思慕の念を抱く。たまみは異性として彼に惹かれたというよりかは、異種として彼に惹かれたとしか思えない。だからたまみは音楽というよりもピアノを奏でる彼の指のその骨格がきっかけで彼に恋をするのであり、あるいは逆に、後夜祭で手を繋ぎそこなう場面が示しているのは軟体的と骨格的の非対称性が原因で起こる二人の手同士の不和そのものの表現であると思えてならない。梶谷凛のような確かな骨格を持つ存在とは結ばれないことが露呈されてしまったあの瞬間に、彼女の初恋は終わりを告げるしかないのだ。

ここに山田尚子の手に対するフェティシズムが感じられる。山田尚子と言えば足のカットを想起するが、この作品においてはむしろ手が重要なモチーフになっている。そもそも山田尚子は足のみによって人物の感情を表現するだけの演出家ではない。手の仕草の運動を積極的に物語に導入しエモーショナルな場面を生み出す瞬間が彼女の作品にはある。登場人物の一挙手一投足のふるまい=モーションが見る者の情動=エモーションを引き起こす。彼女の作品のアニメーションの快楽はそこから生まれているのである。