白い雪が溶ける頃

「傘、ささないの?」
 電車から降り立った駅には雪が降っていた。彼女は改札を出て、まるで何も降っていないかのように傘をささず歩き出そうとしたので、慌ててそう声をかけた。
「粉雪でしょ? 傘さしても無駄だよ。粉雪は下から降るの」
 何を言っているのだろう。彼女の生まれ育ったこの土地では重力が逆さに働いているとでもいうのだろうか。首を傾げながら傘をさし、彼女の隣を歩く。すぐに、彼女の言っていたことがわかった。
「なるほど……」
「ね? 下から降るでしょう?」
 歩くたび揺れる傘の動きに伴う風、それから自然に動いている風は、粉雪を舞い上がらせて、まるで下から降っているみたいに俺の体にぶつかってきた。傘をさしているにも関わらずすぐにコートに白い斑点がくっついたので、傘をさすことを諦めた。
「綺麗でしょう。雪って滑るのよ」
 彼女が指をさす。これから向かうバス発着場の何も停まっていないコンクリートの上を、雪が滑って舞っていた。地面まで落ちかけた雪は風で舞い上がり再び空中に身を躍らせる。くるくると横に渦を巻いて踊りをおどっているようだ。
「まさに舞い上がる、って感じだな」
「綺麗でしょ?」
 再び繰り返された言葉に、素直に頷く。
「初めて見たよ」
「積もると大変だけど、こうして降る景色を見るのはすごく好き。この調子なら積もらないだろうけど、明日の朝は道が凍ってるね、きっと」
 まだ地面は白く染まってはいなかった。青灰色のコンクリートの上を雪はまるでどれだけ地に着かないかを競うように舞っている。
「少し早いけど、ホテルに行きましょう」
「わかった」
 彼女の提案に頷いて、空白のバス発着場のベンチへと向かった。

 彼女と出会ったのは高校の時だ。彼女には幼馴染がいて、彼を通じて彼女と知り合った。当時流行のボブカット、くりっとした大きな目、けれどどこか冷めているように感じる顔立ち。今までに出会ったことのないタイプの女子だった。一方彼は気さくで同じく整った顔立ちで、所謂モテる部類の男子だった。てっきり二人は付き合っているものと思っていたが、そうでなかったことを半年ほど経ってから知った。
「付き合ってるのかと思ってた」
 彼が風邪で早退した日、彼女と二人帰る途中にそう言うと、彼女は、そう、と無機質に呟いた。
「フラれたの」
 きょとん、としてしまった。フラれたけれどギクシャクせずに付き合えているのは、彼の人柄なのかなんなのか。
 三人とも県外の大学に出ることになって、卒業前に彼女に告白をすると、いいよ、と言ってくれた。けれど彼女はまだ彼のことが好きなのだ、それははっきりと、わかっていた。
 大学に入って一年と半年が経って、彼は死んだ。
 交通事故、ということになっているが、自殺の可能性もある、らしい。

 今日泊まるホテルはよくあるビジネスホテルだ。彼女に気を遣って、シングルを二部屋とった。別にそこまで気を遣わなくてもいいのに、と彼女は笑った。
「コンビニでご飯とお菓子を買ってから、そっちの部屋に行くね」
「うん」
 この辺りの地形に関しては彼女の方が詳しかったので、買い物は彼女に任せることにした。
 思ったよりも早く彼女はこちらの部屋の扉を叩いた。さっきよりも冷えるわ、と彼女は冷たそうに白くなった手でコンビニの袋を持っていた。
 彼女はベッドに、俺は備え付けの椅子に座って、おにぎりを食べ始めた。
「びっくりしたよ。同じ県なのに、こんなに気候が違うんだな」
「海側と山側は全然違うよ。私もびっくりしちゃった。雪が全然降らないんだもの」
 今回の旅は交通の便の都合上俺の実家の近くを経由した。彼女は、改めて見ると全然街並みが違うのね、と目を細めていた。
 今回の旅の目的、それは、墓参りだ。
 葬式には出たが、二人とも彼が死んだという現実が飲み込めていなかった。夢うつつな状態で、驚きに支配されていて涙も出ず、茫然としたまま、彼の死を見送った。年が明けて一ヶ月が経って、ようやく現実が事実として認識できるようになってきて、墓参りに行かないか、と彼女を誘った。いいよ、と彼女は即答した。
「……あいつ、もしかしたら、自殺かも、って」
「うん。聞いたよ。お母さんから」
 彼女はまるで世間話をするような軽さでそう言った。
「わかってたのかな。自分は長生きしないんだって。だから私、フラれたのかも」
「どうして?」
「フラれたとき言われたの。きっと独り寂しい思いをさせるだろうから、付き合えない、って」
「なんでそんなこと、わかるんだ?」
「わかんない。でもきっと何かあったんだろうね」
 そう呟く彼女は、彼が死んだことによって完全に吹っ切れたように見えて、そのことに少し安堵を覚えてしまった自分を嫌悪した。
「私ね、ずっと不思議だったの」
「何が?」
「一人称が、二人とも逆だな、って思ってた。俺、と、僕、ってなんだか雰囲気違うじゃない」
「ああ、それは……俺も、思ってた」
 なんで俺は自分の事を俺と呼び、あいつは僕と呼んでいたのだろう。性格的に、あるいは喋り口調的に逆っぽいな、と自分でも思っていた。
「でももしかしたら、二人は、二人で一人だったのかもね」
 彼女の言葉には首を傾げかけたが、一拍置いて、そうだったかもしれない、と思った。彼とは趣味も性格もあったけどそれは、互いの足りない部分を補うかのように、あべこべだった。
 ご飯を食べ終わって彼へ手向けるように高校時代の話をして、それじゃあおやすみ、と彼女は彼女の部屋へ戻っていった。

 翌朝は彼女が言った通り路面が凍っていて、バス停までの短い道のりで何度も転びそうになってしまった。
「本当に慣れてないのね」
「よくこんな凍った路面をすたすた歩けるな……」
「恐る恐る足を出すと逆に滑るのよ」
 バスに揺られて三十分、彼の墓のあるお寺に到着した。雪は再び舞い降りてきていて、今度は粉雪ではない、粒というよりはふわりとした塊の、牡丹雪だった。
「凍った上に牡丹雪は、積もるかもしれない」
 彼女は独り言のように、そう呟いた。
 しばらく歩いて彼のお墓を探す。大体の位置は彼の母親に聞いたけれど、どれも似たような形をして並んでいる墓というのは立っている位置を錯覚させるには十分だった。
 ようやく見つけた彼の墓、そこに積もった雪を手で軽く払いのけてから、水をかけた。彼の苗字が刻んである墓の中に彼の遺骨が眠っている。その感触は確かにそこにあって、夢うつつな感覚はもう消え去って、彼がいなくなったことをはっきりと、認識することができた。
 彼女が鞄から取り出した線香に火をつけて、墓前の線香立てに刺して、手を合わせる。
 死ぬことがわかってたなら、なんで教えてくれなかったんだよ。
 安らかに眠ってい欲しい、という思いよりも先に、文句が出てしまった。なんだか虚しくなって手を下ろした。彼女は俺よりも遥かに長い間、手を合わせていた。

「……私、怖かったの」
 帰り道、路面は薄っすらと白く染まっていた。二人分の足跡を残しながら歩いていると、彼女はぽつりとそう呟いた。
「何が?」
「二人とも、いなくなっちゃうんじゃないかって。私一人、取り残されて、独りぼっちになっちゃうんじゃないかって。……だから、ひとりになるのが嫌だったから、告白されたとき安心した。好きだって言ってもらえて、私の傍にいてくれるんだって思えて、すごく嬉しかった」
 彼女の言葉は白く宙に消えていった。彼女の紡ぐ言葉は冷たく凍って、空気中に溶けていく。微かに上昇しながら溶けていくその様子を見て、せめてあいつに届けばいい、と思った。
「私より先に、死なないでね」
 それから半年後、彼女は自殺した。

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