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愛って? 幸せって?

私の脳内には七人の小人が住んでる。だからキャラが毎日入れ替わり、今回もまた若干文体が違うけども、私なりの「愛」と「幸せ」について言語化しておきたいよ。(?)

愛って?

「愛」なんてたった一語で、「愛とは……」いったい何が語れるのだろうな。まずこの掴みどころのない概念をメタファーで捉えておこう。↓

「愛」を心に芽生えた一本の樹として考えてみる。

この「愛」のどこを切り取って語るか? が問題なのかな。幹から伸び出る枝には色々なものがある。「好感」「思慕」「愛慕」「愛情」「愛着」「恋」「友愛」「敬愛」「依存」「絆」……「仲間意識」「心と心の繋がり」「時間と感情の共有」……愛を言い換える語や関連性の高い表現には、枚挙にいとまがない。幹や枝にあるものはたくさんありそう。繁った葉っぱにも何やら空想的で美しく綺麗な表現が色々ありそう。涼風を受けてそよそよ揺れて、木漏れ日にきらめいて、素敵だね。

だけど地中にある根っこ部分を見てみたい。土の中に隠れた『日の当たらない』部分、そここそが愛の根幹いや根っこそのものだろうから。人間の脳機能からして意識を生み出す働きの深層部分には本能(原始の脳)があると思う。本能本体の格には「恐怖」があるし、つまり表層に表れたきれいな「愛」も根っこ部分にはちょっとマイナスなものがあるに違いないんだ。

この根っこの一番奥にある、微細に複雑に伸びる細い根の部分と太い幹とを繋げている辺りに私が見るものは「負い目」という言葉。ずっと昔からそう表現するのがしっくりきていた。今見てもやっぱりこの表現が「愛」に最も類似した表現のような気がする。本質に近づいていくほどシリアスな語になっていく。

一旦整理。なぜ負い目なのか。愛とは、対象となる存在の荷(場合によってそれは重荷)を自ら進んで背負う行為に他ならないから。小さな負い目もあるし、大きな負い目もある。それは自分から自分の身体に付ける傷のようなものでもある。痛い、のだ。最初は心地よく程よい痛みだけど、最終的にはどうやってもひどく痛いはずなのだ。
根っこの一番深い部分に手を触れると(引っこ抜いたり、切ったり)、身を切るような辛さと悲しみを引き起こす。引き裂かれるような激痛を伴う。心臓が石のように重くなる。鼓動が速くなる。息ができなくなる。これは地中に沈んだ正体の部分だから、普段は地表に現れない。蓋を開けてみたとき、もしこの痛みが発生しないならそれは愛とはちょっと違うものだったのかもしれないし、痛みの大小で愛の大小も測れる。もちろん測れる場面なく枝葉のきれいな部分だけを見て過ごせたらそれは理想。

愛する者を苦しませないよう重荷を背負えば、足取りは必然的に重くなり行動の自由も利かない。つまづく回数が増えるし、よろよろと心許ない動きで危険に遭うリスクも上がる。愛する者が苦しめば、その苦しみを見て自分も苦しむ。亡くした時は自分の半身が亡くなったも同然。

「俺には失うものは何もない……!」
なんて、捨て身の行動を取る人の台詞をどこかでよく聞くけれど、愛を持っていないなら荷を背負ってないわけで、本来その人は自由だ。(しかし実際には自分を愛しているので自分への負い目を持っている。)

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「……誰かを思うほど、人は強くなるのではないのかな」
 夕闇に紛れて細い声が落ちた。
「強くもなり、弱くもなるものですね、陛下。……愛とは、負い目のようなものではなかりましょうか。誰かを大事に想うが故の痛みを知らずして人は強くなれませぬ。まこと人間とは、愚かで哀しい生き物にございます」
「ああ……そうだな……」
 言葉は二人の会話のようでもあり、薄暮の空へ向けた独白のようでもあった。

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(昔書いた小説の一シーンをここにくっ付けて起きたい自分はなかなか痛いナルシスト)

幸せって?

これ。とっても意味のあるものとされたり、人生で求めるべきものとされたり、「幸せとは……」と定義づけられたり、条件で語られたりしている。

(もちろん社会福祉の観点からいって人々の生活水準を守り公共の益を図るため、客観的な視点からの一般的条件付け、一定のスケールなどは必要になる。人間全てに当て嵌めるにはどうしても共通認識となる目安が要るから。また商業体制の中でこの目安は大いに利用され経済発展のために活用されてきたのも承知。)

まだ人生の伏線を張っているような10代〜30代辺りにいる前半時期には、物語(人生ストーリー)の「構造」ばかりを熱心に考えてしまい、これの正体に気づけなかった。最初は条件付けて構造を考えようとしていた。でも、いよいよストーリーが佳境に近づき、伏線回収のフェーズに入ってくると気づいてしまったんですよね。ふふふ(謎の笑み)。

幸せって、追い求めるようなものでもなく、条件付けで語れるような構築された何かでもない。とんでもなく価値の高いものでも何でもない。真理や善良さやこの世の美などと比べるとそこまで語る価値のあるものでもない。ありていに言ってそれはただの感情。実体なんてもちろんない。瞬間的に「……♡」てなる、アレ。「……ああ……(しみじみ)♡」ってなるアレ。それだけ。一種の閃きのようなもの。はかないひとときの感情。工夫してその一瞬を引き延ばす人はいるけれど。

客観的に定義付けられるているものと同じではないんだね。人それぞれ感じ方が違うから。よく定義付けられているものは、一般的に多くの人が幸せを『感じやすい状況』に過ぎない。幸せそのものではないんだね。幸せの正体はただの主観感情、本人が感じるか、感じないか、ただそれだけなんだ。

❤️の一般的なイメージは皆同じだけど、❤️感度は皆違う。

コップの水理論というのがある。モチーフだけをちょっとお借りして膨らませて考えてみる(理論本来の意図とは関係なく)。テーブルの上に置いた満杯状態のコップが倒れてしまい、コップから『幸福』と名付けた水が半分こぼれてなくなってしまう。つまり幸福が減ったわけだ。これを見てある人は、「うわー幸福が減ったっ、悲しい😭」と反応する。半分も消えたのだからまあひどいもんですわ。もちろんこの状態は全然この人にとって幸せなんかじゃない。けれども、同じ出来事が起きた時、別のある人は、「よかった! まだ半分も残っているぞ、私ってなんてラッキーなんだっ♡」と反応する。コップが倒れるという同じ悲劇が起きたにもかかわらず、この人は今半分ある幸福の価値をじっくり味わってみた。アクシデントが却って幸福の価値を高めてくれたわけ。つくづくこれ(=幸福と名前のつけられた水)があることを幸せだぁー☺️❤️と感じる。失って初めて貴重なものに気づいたのかもしれない。(また、この経験をしたことがない人には永遠にわからない感覚かもしれない。)

両者には同じ『減る』が起きたのに、幸せを感じない人と幸せを感じる人が世の中に出現する。……違いは何? ただ心の中に「♡」が起きるか起きないかだけ。その人が「♡」を起こすか起こさないかだけ。

不幸の中ですら「この感情」を見つけ出せる能力を持つ人がいる。どうやら幸せ『感度』の高さが違うみたい。

着ぐるみ剥がされて一文無しで……でも美味しい果物を一つ見つけて食べたら、「う、美味しい😋」ってその瞬間思う。失恋して自分を罵りまくって将来の希望全て失って……でも目の前に苺のショートケーキ出されたら、「う、美味しい😋」ってなる。……その瞬間の感情こそが幸せの正体だと思う。

たとえ死の陰の谷を歩くときも……

古代イスラエル二代目王元羊飼いのダビデは人生の苦難を経験したのち、たとえ暗い谷底を歩もうとも主に導かれている羊である喜びを思い美しい詩を歌った。──(クリスチャンとは無関係の映画や小説でも度々引き合いに出される、有名な詩篇23篇、あれをつい思い出した。)苦しみの中でも幸せを思いみる力は、脳の前頭前野の高度な働きによるのだろうか……??

★個人的エピソードになるけれど(ちょっと生々しくてすみません。)私は過去に、母の狂った金銭感覚のせいでコツコツ貯めた大金をドブに捨てられた(も同然に無くされた)。その時はこの世の何もかもを呪いたくなり、気が狂いそうだった。月日は流れ、私はそのときと同じ金額を、とあるビジネスに関わる出来事で一、二ヶ月で無くしてしまった。いい加減懐寒い生活なのに、数年の月日をかけて貯めたなけなしの財産。呆然とするしかなかった。お金というものがいかに人間の日々の精神バランスを保っているか──。この現実を否応なく思い知った。まさに大ダメージだった。けれども次の日私の中ですごいことが起きた。

当時使っていたスマートウォッチに届いた(内臓システムによる)日替わりメッセージ……。なんというタイミング。

これを見て、頭の中で何かがピキーーンッとはじけた。青ざめていたはずの顔が羞恥で赤くなった。私、なに落ち込んだりなんかしてんだろう。たとえどんなに大きな価値があろうとお金なら健康な身体一つあれば何とか取り戻せる。数年間の労苦が泡と消えたとはいえ、いま元気を持っていることに較べるとなんだ。自分と家族は生きているし、私には好きなものが心の中に一杯あるし、それを表していける情熱も気力もある。何より明日がある! 当たり前過ぎるけど、ああ、これってなんて幸せなことだろう……♡ そうしみじみ思った。だから何も泣く理由なんてない。あれ、ひょっとして、これほど落ち込んでしまった時でさえ、今を最悪と思うか最高と思うかは自分自身で決めればいいのか。……そっか! だったら今を最高と思うことにしよう!! 精神的大ダメージを受けた心から、にょきにょきと幸せ感度の新たな軸が芽生えてきて、挙げ句に『自分はこの世で最高に幸せな人間なんだ〜』とまで感じてしまい、嬉しくてたまらなくてちょっと飛び跳ねてしまった。(二度にわたって大金を無くし共に精神的大ダメージを喰らっていた旦那の目は、点になった。)実際の生活はその日から苦しくなったのだけど、その瞬間から私の中で『不幸感』は一切消えて幸せをそれまで以上に噛み締めだしたから、人間ってほんとに不思議な生き物だ。『幸せ感度』の上位互換なんて、とんでもないタイミングでやってくる。

……まあ、お金の話なんか取り返しのつく類の話だからそれが何? と言われればそれまで。でも。

人生のどん底にある人が幸せを歌い、人生の頂点にいる人が我が身の不幸を嘆く──これは世界中で普通に見られている現象。苦難の中にも幸せを見つけられる人がいて、成功や名誉を手にしても一向に幸せを感じない人もいる。……幸せって、いわば直感力みたいなものなのかな? 何かを失くさないと自分が幸せだったことに気づけない人もいるし、失くしてもいないのに自分が恵まれていることに目一杯気づけている人もいる(←こういう人ほんま尊敬するわ。滅多におらへん。……謎の関西弁)。本当に、幸せって条件じゃないんだ。追い求めるものでもなければ、高い場所に存在する輝かしい人生の到達点でもない。人って若い頃は、こんな捉え方を話すと、負け惜しみとか悪足掻きとかに結びつけるのかもしれない。真面目な直線思考で物事を考えていた頃は、幸せは人類共通の形をしていて「客観的」に測れるものだと完全に勘違いしていた。

自分は幸せを感じとるセンサーをどれくらい持っているか? つまるところ人は皆自分にそう問い掛ければよいのかもしれない。どのような状況にいようとも。

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あまりに当たり前のことを書いた気がする^^; 記事にする価値などなかったかもしれない。でも一度文章にしてまとめておきたかったので書いてみた。

今noteの下書きを数えてみたら37になっていた……ま、まさかの30超え(汗)中には何千文字も書いてる下書きもあるけどきっと仕上がらないんだろうな……。(←HSS型&マルポテあるある。)私の中に住んでいる小説のキャラたちが『早く続きを書いてくれ〜!』と最近うるさく小突くので、そろそろ区切りつけなきゃいけないのだけど、まだ幾らかアップしたいものがあったりする。

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