舞台版『PSYCHO-PASS サイコパス Chapter1―犯罪係数―』を観て考えたこと
予想していたより、ずっとずっと斜め上を行かれた。
なるほどこういう2.5次元もありなのか、と。
舞台版『PSYCHO-PASS サイコパス Chapter1―犯罪係数―』を観てきた。
一度目を観終えたとき、正直なところ、「賛否両論あるだろうな」と思った。観た人全員が絶賛する舞台ではなかろう、と。
でも私はすごく面白かった。
諸手を挙げて大絶賛! という感じではなくて、他人の感想や考察を見て後から思い返した時に、「ああ、そういうことだったのか」としみじみ噛みしめるような感覚で、「面白い」と感じる舞台だった。
舞台以外の話にも逸れながら、舞台の感想をだらだらと書きますので、お暇のある方はお付き合いくださいませ。
前置きが長いので、純粋な舞台の感想はほぼ後半です。
舞台感想だけ見たい方は後半からどうぞ。
・舞台の内容に触れています。
・原作アニメの内容、1期の結末の方にも触れています(2期、3期には触れていません)。
・小説版のことは、読んだ範囲でほんの少しだけ。
ネタバレを見たくない! という方はお気を付けください。
■ ■ ■
私はサイコパスに関しては、アニメシリーズはリアルタイムで一通り見ている。
劇場版も観に行った(ただし三部作は行くタイミングを逃してしまったので今後履修する)。
舞台版VVはアマゾンプライムビデオで観た。
小説版はどのバージョンもまったくの未履修(今回の舞台を観た後、全部買い揃えたので読む)。
つまり、最低限を一通りさらってはいるが、深くはまりこんであれこれ考察を重ねてきたファンではない。
でも「人生に影響を与えたと思うアニメを10作品選べ」と言われたら、多分その中にサイコパスが入る。
それほどまでに、1期1話を見た時の衝撃は凄まじかった。
こんな物語の始まり方があったのか……! と思った。
「おまえは狡噛慎也だ」
「おまえは槙島聖護だ……!」
二人の男が、ただ名前を呼び合う。それだけがどうしてこんなにも印象的で痺れるほどかっこいいのだろう。
この二人が何者であるのかを視聴者に知らしめると同時に、互いが初対面であることも、それにもかかわらず因縁の相手であることまで示唆している。何と見事な幕開けか。
物語の始まりに、これほど引き込まれたことはなかった。
その最初に受けた衝撃の大きさを忘れられないまま、今でもサイコパスという作品は、私の中でとても特別な場所を占め続けている。
深追いこそしなかったが、その後のストーリー展開などを含め、感銘を受けた作品だ。
ちなみにサイコパスは、私が初めて触れた虚淵作品だった。それまで「まどマギ」などの噂は聞いてお名前は知っていたが、作品に触れたことはなかったのだ。
このときの私は、その一年後の自分が、『仮面ライダー鎧武』で呉島貴虎に落ちることをまだ知らない。
そんな感じの原作ファンなので、アニメを舞台化すると聞いても、「都合がつくなら行こうかな」くらいだったかもしれない。本来なら。
でも今回は、制作発表と同時に、絶対に行かねばならないと思った。
だって狡噛慎也を演じるのが久保田悠来さんなのだ。
以前の、舞台『仮面ライダー斬月』激推し記事を読んでくださった方はもうそろそろ聞き飽きたと思うが、私はわりと久保田さんを推している。
わりと、と控えめな表現なのは、出演作全部を履修してるわけではないからだ。
でもこの一年で一番推して追いかけたのは、間違いなく久保田さんだ。
久保田さんの魅力にはまったのは、「仮面ライダー鎧武」の呉島貴虎/仮面ライダー斬月役からだった。
なので久保田さんが貴虎を演じる姿を舞台『仮面ライダー斬月』で見られた時点で、もう今年は幸せを味わい尽くした……と思ったところに狡噛役である。
久保田ファン、ちょっと恵まれすぎでは? と混乱した。
アニメサイコパスを見ていたときに好きだったキャラは縢くんだ(ああいう明るく振舞うけど古傷やコンプレックスを抱えていて、まっすぐ生きることのできない自分を自覚しているキャラクターに滅法弱い)。
しかしそんな私も、狡噛さんを好きでないはずがない。狡噛慎也というキャラクターは、見る者すべてを惚れさせる男だ。
決してお行儀がいいとは言えず粗野な部分はあるし、新米監視官の常守朱を何かと困らせる。でも信念があり、瞳には常に理知の光が宿り、鍛え抜かれた強さを持つ。ずるいくらいにかっこよさの詰まったキャラクターだ。
それを推しが演じるとなれば、観に行かないという選択肢が存在しない。
アニメサイコパスを見たことのあるオタクは、「自分の推しがドミネーターを持った姿」を一度は考えたことがあるんじゃなかろうか。
突然主語が大きくなって恐縮だが、そんなこと考えたことがない人でも、推しの二次元三次元問わず、ドミネーターを持った姿を想像してほしい。
ただでさえ美味しい設定の詰まったかっこいい武器なんだから、推しが持ったらかっこいいの二乗で超絶かっこいいに決まっている。
「かっこいい」の羅列になり、語彙が貧困で申し訳ないが、どう足掻いてもそれ以外の言葉で形容できない、「かっこいい」以外の形容詞がどうしても的外れになってしまう絶対的かっこよさというのが、この世には存在するのだ。
今回、久保田さんが狡噛役に起用されて、ドミネーターを持つ姿を無事に目にしたわけだが、想像を超えたかっこよさだった。
実にナイスキャスティング。かっこよさの権化だ。
キャスティングに関しては、虚淵さんに「狡噛慎也は久保田さん以外考えられない」と言われた、というのも嬉しい(参照記事)。
これほど重要で人気のあるキャラクターを、原案者から安心して託された。
もうそのエピソードだけで、久保田さんを知らない人にも彼がどれほど狡噛慎也に適役であるか、うかがえるというものではなかろうか。
■ ■ ■
前置きが長くなったが、いざ舞台を観た感想としては、「なるほどな……!」だった。
アニメの舞台化は、観ている側が想像するよりずっとずっと難しいのだろうと思う。
原作ファンであればあるほど、アニメの世界観を壊してほしくない。ストーリーを変えてほしくないし、細かいエピソードだって削ってほしくない。
でもアニメそのままをやっても仕方ない。完璧にコピーするくらいなら、別に舞台を観に行かなくても、オリジナルであるアニメを見ていれば済むのだ。
「原作を丁寧に再現してほしいけど、原作そのままの再現はやってほしくない」
そんなわがままを平気な顔をして言うのがファンというものだ。それは全く悪いことではない。むしろファンだからこそ抱えるジレンマであろう。
2.5次元舞台が乱立する今、2.5次元に求められているのは、もはや単なる再現性の高さではないと私は思う。
では何が求められるかというと、原作の空気や世界観を再現した上で、「それを演劇にした意味」「人間が生身で演じる意味」を載せていくことではないだろうか。
その「載せる」部分の作り方が、この舞台サイコパス、工夫があって面白かった。
■舞台装置
真ん中がぐるぐる回る螺旋階段状の舞台装置がとても良かった。
螺旋階段、というともう原作ファンにはお馴染みの、あの場所だ。1話の冒頭で出てくるあの場所。二人がついに出会うあの場所。
それを意識した装置を真ん中に据えたのは、大正解だったと思う。
螺旋階段の下は天井の低い通路のようになっており、90度回転しただけでまるで違った場所に見える。
純粋に面白いセットだと思った。
また「回る」仕掛けというのは、「翻弄される人々」を表すようだ、という感想をいくつか目にした。私もその通りだと思う。
だが私はもう一つ、ふと思い出すものがあった。
『マクベス』である。
『マクベス』は王陵璃華子が『タイタス・アンドロニカス』と共に名前を挙げたシェイクスピアの悲劇だ。
マクベスでは、三人の魔女が大釜の周りをぐるぐる回りながら地獄のスープを煮立たせている(訳によって表現が違うようなのだがとりあえず「地獄のスープ」とさせてもらう)。
人力でぐるぐる回す装置は、マクベスへのオマージュも含まれている……とは考えすぎであろうか?
まるで大釜をかき混ぜるように、舞台装置はぐるぐると回る。
おぞましいものが山ほど放り込まれ、煮立った釜の中に出来上がるもの。それはサイコパスの作品世界における何に当たるのか――人の心を数値化し、クリーンで理想的な世界を目指しながら、歪みを生じさせているシビュラというシステムそのものが、「地獄のスープ」に当たるのではないか?
牽強付会かもしれないが、そんなことを考えた。
観る者にそういう色々なことを「考えさせる」舞台装置であったと思う。
私の妄想は置いておいて。
この舞台装置の面白さはそれだけではない。
私はステラボールに今回初めて行ったのだが、行く前から色々と噂は聞いていた。
何せ「ステラボール」で検索すると「ステラボール 人権」とサジェストされる。人権がない(=何も見えない)席が多いという評判を友人からも聞かされていた。
なので今回は警戒心を高めて観に行ったのだが、結果から言うと、思っていたよりずっと見やすかった。
段差も付いていて、なるべく人権が保障されるようにという工夫を感じる客席作りだった。実際、後方はとても見やすい。
とはいえ、この舞台は柱が多く、高低差の激しい(特に下手に一番高みが来る)セットで、柱や壁で死角が頻発するし、下手前方席からは役者(特に槙島)がおそろしいほどに見えない。私も下手前方に座ったから分かる。
そういう意味では、少し不親切な舞台装置でもある。
柱や階段に遮られて、端の方からのみならず、センターブロックにいてすら、どうしても見えない部分がどの座席からも必ずある。
ある意味「どの座席からも等しく人権を奪う」舞台装置と言えるかもしれない。
どこに座っていても、「見通せないというストレス」が発生するのだ。
この「見通せないというストレス」は、もう既に色々な方の感想考察で指摘されているように、ここまでやるならおそらく計算に入れられたものだろう。
「見通せないというストレス」が、そのまま「槙島の尻尾すら摑めない焦り」への共感に繋がっていく。
――だとすると、劇場に足を運んだ人は、もしかしていい意味でとんでもないものを見たのではないか、と思うのだ。
というのも、この舞台は円盤にもなるし、配信もされる。
特に円盤では、カメラが様々な角度から、「発言している人」や「その場面のキーとなる人」をアップで映すはずだ。
つまり、常にその場面における最も見通しの良い席に移動しながら見ているような状態になる。
ならばおそらく「見通せないストレス」(=苛立ちや焦りへの共感)は格段に軽減されてしまう。
そのストレスの軽減を阻止して、全体の見えにくさをパッケージでも残せるのが「全景映像」だろう。
しかし今回の円盤、全景は「会場予約特典」だ。
つまり劇場まで足を運んだ人だけが、あのストレスを知っていることになる。
円盤だけ見た人は、見やすいように切り取られ、綺麗に整えられた舞台を見るけれど、劇場で見た人は、その美しさの向こうに気持ち悪さが残るのを知っている。
それはごく一部の者だけが真実を知りうる、シビュラシステムそのものを象徴しているようでないか?
あとこれは他の方の感想を読むまで気付きもしなかったが、初期状態の舞台装置の形が、ドミネーターを模しているというのだ。
言われてから開演前によくよく見てみると、確かにドミネーターの形だ。ゾッとした。
気付いた方は天才すぎじゃないか。この設計をした人も、何をどうすればそんな仕掛けが思い付くのだろう。
ドミネーター――それはシビュラとリンクし、その意思を執行させるものだ。
マクベスを連想しなくとも、やはりあの舞台装置は、シビュラの象徴であった説を個人的には唱えていきたい。
あと印象に残ったのは、プロジェクションマッピングをここまで「活用しない」舞台は、最近では珍しいなということだった。
言うまでもなく、プロジェクションマッピングによって、2.5次元のみならず舞台表現は飛躍的に進化した。凝った大道具を用意しなくても、映像だけで場面を一瞬にして転換できるし、様々な効果演出が付けられる。
この舞台サイコパスでも、プロジェクションマッピングがふんだんに活用されて様々な表現が現実に……と予想していたのだが、前述の通り柱だらけ、死角だらけの舞台装置なので、そもそもプロジェクションマッピングを満足に投影するスクリーンとなるものが存在しない。
プロジェクションマッピングは使用されるし、それなりに細かい文字も出てくるが、まるで読ませるつもりがない(読む必要がないものではあるが)。映像はあくまでも背景でしかない。
柱や壁に阻まれて、ガタガタの細切れになって舞台を飾り付ける投影画像は、まるで抽象絵画のように見え――同時に「標本事件」の標本のようでもある。
本当に、そういうことを「考えさせる」のが上手い、含みのある舞台装置だった。
もちろんドミネーターの演出や、その他諸々各所で、プロジェクションマッピングは活用されてはいるのだけれど。
なるほどこんな風に「はっきり見せない」方向にプロジェクションマッピングを使えるんだなというのが、今回一番「そうくるか!」と驚いた部分かもしれない。
■歌とダンス
歌とダンスに関しては、おそらく一番好みの分かれる要素だったのではないか。
私個人に関しては、最初はびっくりしてしまったが、「あり」だなと思った。
先に言った通り、アニメの舞台化をやるのなら、「演劇にした意味」を載せる必要がある。
そういう意味で、歌とダンスは、他の媒体ではやれない表現方法として有効だ。
さすがに主要キャラが歌ったり踊ったりしたら、それはミュージカルでやってもらいたい……と思ったかもしれないが、歌もダンスもアンサンブルがこなすので、慣れればBGMのようなものだ。
実際、最初は面食らっていた私でも、三度目を観たときは、かなりすんなり受け入れられた。
こういう要素が入ると分かっているかいないか、心構えができているだけでずいぶん印象も変わるのだろう。
足利紘一の歌のシーンなど、どうすればいいか分からず所在なさげにわたわたしている朱と、いつものが始まったから終わるまで待つか、とでも言うように平然と一服している狡噛の対比が面白くて、この歌のパートが挟まってよかった、と思った。
とはいえ、「アニメの舞台化」であると考えたとき、この歌とダンスの要素を「かなり攻めているな」とは思う。
原作ファンというものは、原作になかったものが混ざることにとても敏感だ。追加要素の出来がどれだけよかったとしても。
なのであの要素が受け付けなかった、という人もいて当たり前だと思う。
でもそういう反応があると予想できるだろうに、歌とダンスを取り入れた、そのチャレンジ精神旺盛な演出に、私はとても好感を持った。
当たり前の2.5次元にはしない、という意志を感じた。
続編があるなら、今回と同じく、演劇にしたからこその要素を取り込む、攻めた演出が見られたらいいなと思う。
■小説版要素
一幕最後、観客の色相が一気に濁る直前の、クリームパンのくだり。冒頭で述べた通り小説版未履修のため、最初は舞台オリジナルかと思っていた。
だが小説ネタらしいと聞いて、次の日急いで本屋に駆け込んで、小説版を買ってきた。
高羽 彩『PSYCHO-PASS サイコパス /0 名前のない怪物』 (角川文庫)
まさかそんなところからネタを引っ張ってくるとは……! と己の準備不足を呪った。
原作のある舞台に関しては、なるべく原作を履修してから観に行くことにしているのだが、今回は「そうは言ってもアニメシリーズの舞台化なら、アニメ1期だけ見返しといたらいいでしょ?」くらいの復習しかしなかった。
だが違った。私に真に必要なのは、既に通った道を辿り直して確かめることではなく、その道を深く掘り返すことだったのだ。
まだ読んでいる最中だが、この小説『サイコパス0』、標本事件の顛末が詳しく描かれており、「狡噛がいかにして今の狡噛になったのか」、まさにエピソードゼロに当たる物語だ。
舞台の狡噛と佐々山のやりとりは、クリームパンはじめ、この小説から取られている部分もかなりある。
原作アニメにこそなかったが、限りなく原作に近い場所から、世界を膨らませキャラを厚くするエピソードを引いてくる。
このプラスアルファ要素の混ぜ方を、私はとても好ましく思った。
特に、回る舞台の上で、離れて背中合わせになった――いや、鏡合わせと言うべきだろうか――佐々山と狡噛が「冷静になれよ、俺……!」と声を揃えて叫ぶシーンはものすごく印象的だった。
佐々山が狡噛の中で生きている、というだけではなく、アニメの展開を今だけ忘れるとしたら、「佐々山と同じ轍を狡噛も踏もうとしているのではないか?」とドキッとさせられるシンクロでもあったように思う。
佐々山を丁寧に描くことで、狡噛の抱えるものをより鮮明に浮き彫りにすることに、この舞台は成功していた。
そして狡噛がなぜ槙島に執着するのかが分かったところで、舞台のストーリーは狡噛と槙島が出会わないままに幕を引く。
続編でついに直接対峙するであろう二人が、どんな風に掘り下げられ描かれるのか、今から楽しみで仕方ない。
あとはキャストももちろんよかった。
全員すごかったので全員に詳しく言及したいのだが、千秋楽までに感想が間に合わなくなるので、とりあえず一言だけ。
まず常守朱、ちっちゃくてかわいくて、一生懸命に駆け回ってるのがほんと常守朱(初期)という感じ!
このホワホワかわいい子がどんどん逞しくなっていくのか……でもこの方なら演じられるのだろうな、と思わせてくれるパワフルさがあった。
周りとのバランスを見ながらの立ち回りがものすごく上手い印象を持った。
縢くん! 安定と信頼の橋本祥平くんなのでもう言うことなし。動きがいちいち縢くん。登場のときの懸垂みたいにぶら下がってるのどうなってるんでしょう……力持ち……。
「コウちゃんは? あっ、そっかー、ドミネーターで~」の台詞、最初の頃より後半の方が嫌味っぽくなってて、でも憎めないのがずるい。こんなにいい子が続編では……と思うと既に泣いてしまう。
宜野座さん、とてもギノさんだった。「狡噛!」の言い方とか、そうだ初期のギノさんこんな感じだった! と懐かしくなった。回想のとき、狡噛だけじゃなくてギノさんもちゃんとほんの少し若くなってるのが細かい。
歩き方とか「あ、ギノさんこういう歩き方するだろうな」と思う感じで、全体がものすごく役と自然に馴染んでいらした。
志恩さんを演じる愛加さんは、去年まで宝塚に行ったことが一回しかなかった私が行ったことのあるまさにその一回で娘役トップを務めていた方だ。『一夢庵風流記』のまつ役だった。こんなところで再び拝見できて嬉しい。
「はいはい」の言い方や吐息がものすごく志恩……と思った。あの派手な衣装とウィッグが似合っているのはさすが元宝塚の娘役トップだと思った。
弥生ちゃん。クールで機敏。猫のように気ままでマイペースかと思えば、「今のうちに泣いておきなさい」の演技の素晴らしさたるや……! あの台詞、アニメでもすごく好きなので嬉しかった。
声の寄せ方も素敵だった。あと佐々山いじりのバリエーションお疲れさまです、楽しませていただいています。
チェ・グソンはもう本物をアニメから連れてきたの? というくらいビジュアルも佇まいも何から何まで本物でしかなかった。
あとスタイルがいい。もう一億回言われてると思うけど、足が長い。この舞台、グソン好きな人は何がなんでも観ておくべきだと思う。
泉宮寺さん。まずキャスト発表されたとき、泉宮寺さんがいるのに驚いた。
舞台では泉宮寺のプロフィールが語られなかったけれど、その不足を補って余りある圧倒的不気味さ、存在感。目を見開いたお顔とかアニメそっくりで観ていてぎょっとするほど怖かった(とても誉めている)。
王陵璃華子は本当にかわいい。あの気が強くて生意気そうなのに賢そうな二次元の超絶美少女の顔が三次元で再現できると思っていなかった。見るからにパッと華がある。
追い詰められた最期のときに浮かべる笑みのゾッとするほどの美しさたるや。Chapter1で出番が終わりであろうことが惜しい。
征陸さん、動きが豪快でいかにも征陸さん。こんなに頼りになるとっつぁんが続編では……と思うと既に泣いてしまう(二度目)。
立っているだけで叩き上げ刑事の貫禄を感じる。今回は宜野座さんとの確執周辺はあまり深く触れられなかったけど、続編では掘り下げてくるのだろうか。
槙島聖護、台詞から振る舞いから何もかもが難しい役だと思う。ビジュアルからして三次元に存在していていい容姿ではない……はずなのだが、あの容姿を見事再現した前山くんには拍手を送りたい。
3日目に見たときも、この難しい役をよくぞ……と思ったのだが、12日目に再び観に行ったら、より役に馴染んでいた。初期が未完成だったわけではなく、使い込まれた道具が風合いを増していくような意味合いで、日を重ねるにつれ、槙島の演じ方に深みが出ていたように感じた。動きがいちいち軽やかで重力を感じさせないのも良かった。
佐々山は、細貝さんだというのでちょっと贔屓してしまうのだが、キャストが出たときから期待に期待を重ねていた。
舞台戦国BASARAから2.5次元舞台を観はじめた私にとって、久保田さんの伊達政宗と細貝さんの真田幸村は、まさに原体験。有明で二人の卒業を見送った「武将祭」以来の共演に狂喜したファンも多いはずだ。私も嬉しかった。
佐々山と狡噛を細貝さんと久保田さんでやってくれるというのも、もう……何というか久々の共演でよりによってそんな関係性の役をやってくださるのが、待っていてよかったと言うしかない。
実はアニメを見ているときには佐々山というキャラクターにさほど強い印象を持っておらず、舞台でどの程度出てくるんだろう、と思っていたのだが、小説版のエピソードも引いたおかげで出番が増えて、「狡噛がいかにして今の狡噛になったのか」の原点にある佐々山という人物がとても丁寧に描かれていた。
細貝さんが演じたせいもあり、舞台を観て佐々山が好きになってしまった。細貝さんが演じてくださって本当に良かった。
狡噛。思いきり贔屓させてもらう。
私は今回の舞台、「絶対初日に行かねば!」とまでは意気込んでおらず、友人に合わせて3日目のマチソワに行くことにした。
当然、初日、2日目に見た方の感想などがちらほらと目に入ってくる。
私はネタバレをあまり気にしないタイプだが、そうは言ってもやはり、新しい作品に向き合うときは、誰のフィルターも通さずなるべく自分の目で確かめたい。
なので人様の感想を、ネタバレを踏まないよう薄目で見ながらワクワクを高め、いよいよ明日私の初日が来るぞというタイミングで、ゲネをご覧になったという某先生から送られてきたメールの追伸で「久保田くんサイコーでした」という感想をいただいた。普段からさんざんメロンメロンと言い続けているせいで、推しがすっかりバレている。
観終えたときに、胸中を様々な感想が巡っているであろう中、あのサイコーな狡噛は江中の推しだなと思い出してくださっただけで感謝しかない。
そうなんです。私の推し、サイコーなんですよ!!!
ついでに「二幕の冒頭がすごい」(意訳)という情報もいただき、何が起こるのだろうと思っていたのだが、それより先に一幕の最初で打ちのめされた。
舞台の上に、狡噛慎也がリアルで立っている。
ボサボサの髪に緩めたネクタイ、アンニュイな表情でドミネーターを手にタバコをふかすその人は、紛れもなく狡噛だった。
アニメそっくり、というわけではないのに、それが間違いなく狡噛だと分かるのだ。
――久保田さんはこういうところがすごく上手くて、「原作から抜け出てきたキャラまるでそのもの」というより、「原作のキャラを三次元で、自分に落とし込んだ姿」を非常に上手く表現される方ではないかと個人的には思っている。
キャラの完全再現ではなく、「久保田悠来にしか演じられないそのキャラクター」を見せてくれる人、とでも言おうか。キャラクターはしっかり守っているのに、必ずオリジナリティが見えるのだ。
他ならぬ自分がその役を演じる意味を、深く考える方なのだろうなと思っている。
今回の狡噛役も、久保田さんが演じるからこその狡噛であったと思う。
過去の傷が時と共に癒えるのを拒絶するためとでもいうように、佐々山と同じタバコを吸い続ける、狡噛の抱える闇。しかし闇を見つめ続けてなお失わない、刑事としての自分。無造作で粗野なのに、鍛え上げられていて鋭い存在感。かと思えばクリームパンについて熱く語るインテリバカ(小説でそう言われていたのでそのままの表現を使う)ぶりを披露して笑いを誘う。
それらすべての要素を矛盾なく内包して私たちの前に立ち現れた、最高の狡噛だった。
あと久保田さんの身長体重が狡噛と同じ、という偶然は、原作ファンの方にも喜んでいただけたのではなかろうか、とひそかに思っている。
そして話は戻るが、問題の「二幕の冒頭」だ。
タンクトップで組手をしてる姿を見て、「うわー! これか!」と思った。
こういうかっこいいアクションは久保田さんの独擅場だ。確かに原作でもこのシーンはあったが、まさか舞台でここまで尺を長く取ってくれるとは。しかも対戦相手が増えている。
久保田さんの殺陣は、演じるキャラクターの内面を、一手一手から感じられる。物語性と説得力のある殺陣だ。
重みを感じる、相手を仕留めようとする意志を振り抜く拳に宿したアクションは、まさに狡噛慎也そのものだった。蹴りも何と速く美しく力強く足が上がることか……。最高だ。
この時点で舞台を拝みかねない勢いだったのだが、その後、タンクトップを脱いだ瞬間に、「ああ……なるほど『二幕の冒頭』と仰っていたのはこれのことか……!!」とようやく正解を理解した。
「身長体重が狡噛と同じなので筋肉量を増やす」とはインタビューで仰っていたが、こんなに肉体改造してくるとは。役者さんってすごい。肉体に説得力がある……狡噛の肉体をしている……。
久保田さんという方はストイックな方だなと、改めて尊敬の念を深くした。
推しが演じるならどんな役だってどんなキャラだって好きになってしまうけど、演じ甲斐のあるとびきり良い役に当たってほしいし、この人が演じてこそ、という役であってほしい。いつだって。
今回の狡噛役は、その二つの欲求を満たしてくれる、実に素晴らしい役だった。
■ ■ ■
脱線しつつだらだらと感想を書いてきたが、観終えてから色々思い返しているうちに、「こういう2.5次元も面白いな」という思いを強くした。
舞台表現ならではの要素を盛り込み、映像を頼りすぎない。
生身の人間が演じることの意味にこだわる。
そんな舞台だったから、ぜひ生で見てほしいところだけれど、実はもう公演期間が残り少ない。
でも当日券も毎公演あるそうなので、都合のつく方はぜひチャレンジしてみてほしいし、ステラボールに行くのは無理な方も、ニコニコ生放送で舞台の配信があるのでぜひタイムシフトを。10日(日)18時からです。
https://live.nicovideo.jp/gate/lv322461989
冒頭部分は無料だそうなので、最初の方だけでも。
久保田悠来さんが狡噛慎也を演じている姿をぜひご覧ください。
10日のその時間は忙しくて無理な方も、タイムシフトで後日見られるので……。
千秋楽まで無事に終わって、どうか麦畑までやってほしい。
次の舞台ではどんな挑戦を見せてくれるのか、楽しみだ。
以上、久保田さん推しのファンの、舞台サイコパス感想でした。