ネットの功罪
昭和42年生まれの私は、そもそもがアナログな人間。
使っている携帯はガラ系で、スマホを持とうという気にもならない。
従って、ラインもツイッターもしない。それでいいのだと思っていた。
物書きには、必要のないものだと思い、昔ながらの生活を保持していこうとしたが、いやはや、行く先々で、人と知り合い、気が合って、連絡先を訪ねると、ラインは?と聞かれる。いや、やってませんと答えると、不思議そうな顔をされてしまい、こりゃ、時代に取り残されるなあと危機感をじんわりと抱いて、ケーブルテレビの加入ついでにタブレットを持つようになった。
が、使いこなすのに一苦労。
スマホを使ったことがないので、物語の登場人物は、勿論ガラ系。
スマホを小道具に使ったサスペンスだって書けるというのに。
何故にそこまで頑ななのだろうか?
どこの誰とも知らない人と知り合うことには一向に抵抗はない。むしろ
知らない人と繋がることの楽しさというのは大いに歓迎なのだ。
が、この先、どんどん、自分の住むこの空間に見えない網の目が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、人類はどこへ行くのだろうか?
自分の知らないところで、自分がさらけ出され、自分という別の人間が独り歩きする。どこで何をしていたのか、写真をネットにあげるだけでその場所が特定されてしまう。まさにホラーだ。サスペンスならアリバイにもなるが。
だがしかし、孤独に物を書いている自分にとって、人から人へと縁が繋がるというのは実に有難く、そもそも、そこがSnSを立ち上げた創始者の願いだというのだから、便利なものを使う手はないと思い始め、ラインを始めた。
お陰で、沢山の人と出会うことが出来、そこから得る情報は宝だ。
だからこそ、引きこもりの人間でさえ、人と関わることを諦めないのだろう。
職場のストレスから、長らく人間不信になってしまった。
人と関わるのが恐いとすら感じたが、その傷も不思議と、知らない人と出会うことで癒されるものだと知った。
手垢の付いた言葉だが、人で傷ついた心は、やはり人でしか癒せない。
と心底思えた。
今いる環境の中で、どうしても馴染めないと感じてもけして絶望しないで欲しい、別の受け皿があるのだから。
昭和の時代では、今ならストーカー行為と言えるようなことが普通だったこともあったし、第三者に他人の住所を尋ねると、そこは個人情報でして、という受け答えなどあまりなかったように記憶する。
他人との関わりに、いささか神経質になりすぎている昨今、それでもやはり、人と関わることを止められない。
いやはや、不思議な時代である。
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