マガジンのカバー画像

初めましての方に読んでほしい厳選noteまとめ

23
ご訪問ありがとうございます。個人的満足度の高いnoteのまとめです。
運営しているクリエイター

#悩める大学生

何者かになりたいと願う

今日は昨日まで夏の気候だったのが信じられないくらい秋の気候だ。窓から流れ込む涼しい風が心地良くて、うたた寝どころかだいぶ昼寝をしてしまった。"昼寝"という睡眠時間はなんだかとても贅沢に感じる一方で、寝すぎた時の時間を無駄にしてしまったな...というあのなんとも言えない虚しさが少し恐ろしい。暑くて寝苦しい夏はもう終わったのだろうか。まだもう少し、畳の上で大の字に寝転がっていたい。 🔁 中学後半だっただろうか、それとも高校前半だったろうか。明確に覚えているわけではないが、「モ

個性が求められることの怖さ

毎週水曜日の道徳教育の授業。 最近は1週間で1番この授業を楽しみにしている。 そんな授業を受けて考えたことのお話だ。 🔁 個性的である、とはどういうことか。 凡庸さの中にあって一際目立つのが「個性」である。 個性があるのは良いことだ 個性的なのは価値があることだ そんな言葉をよく耳にする。 でも本当にそうだろうか。 「個性」は怖い。 「個性」は周囲の凡庸な人間の存在によってこそ生み出されるものだから。 凡庸な存在があってこその「個性」の際立ちだから。

"うまく生きる"ってどういうことだろうね

うまく生きる、器用に生きるというのがどんなことなのか。 一生かかっても答えは出せないかもしれないけれど、この問いについて少し考えてみたい。 私は自分で自分の生き方を"ヘタクソ"だと思う一方で、 自分の周囲の人間で「この人はうまく生きているなぁ」と思う人を見つけては その人のように生きるためにはどうすれば良いのかを考えてきた。 もちろんその人の生き方に憧れても、ただそれを真似するわけではない。 その人の生き方を、自分の中でどういう形に再度創り出せるかを考えるのだ。

正しいものは本当に正しいのかと問え

世の中には一般的に「正しい」と言われるような考え方が行動がある。その場にふさわしいであろう言動がある。 私たちは小さい頃から小学校などで教育を受け、総合的な学習の時間や道徳の授業で公徳心というか、いわゆる世の中で「一般的に正しいと言われている考え方」みたいなものを学ぶ。 小さい頃、先生の期待に応えようと、あるいは先生が願っているようないわゆる"模範解答"を言うことが出来る生徒は1つのクラスに一定数はいなかっただろうか。 先生が求めている答えはもうわかっている。だから自分

知りたいけれど、全部を知りたいわけじゃない

人間関係って難しいよね。相手の考えていることが全部わかるわけがないし、逆に全部わかってしまっても怖い。なんでも自分の感情が相手に見通されている状態で会話をするなんて、腹の探り合いになってしまいそうだ。 どんなときも、嘘はつけないだろう。 世の中にはついていい嘘....いわゆる、誰かが幸せになるような嘘、もあるけれど、やっぱり「嘘」という言葉にはマイナスのイメージも常につきまとう。 嘘をついたら相手を傷つけるかもしれないし、相手のことを思ってついた嘘によって、自分は傷ついて

自分の欠点を見つめること

短い短い夏休みは今日で終わる。明日明後日はテスト。そのあとはレポートラッシュと続いていく。こんな日常に飽き飽きしているが、小さな楽しみを見つけ それをご褒美に頑張っていくしかないと思っている。 東京の夕焼けは、まだしばらくの間見ることができないだろうな。 🔁 就職活動では"自己分析"なんて言葉を頻繁に聞くけれど、自己分析は自分の欠点を見つめることだけではない。もちろん。 けれど自己分析の中では自分の欠点を見つめ、自分の長所をその会社の仕事の中でどう生かし、欠点をどう少な

自分の存在そのものを否定されたように感じてしまうこと 1

縁側で線香花火をするのが密かな楽しみである。月を見ながら涼しい風を感じているのはちょっとした幸福の時間だ。今年の夏は本当に暑すぎる。小学生の頃は夏でも鬼ごっこやら けったこやら で外を走り回っていたことがにわかに信じがたい。こんなに暑くては外で遊ぶどころか外に出ることも憚られる。私の実家がある町の良いところは、まだ朝と夜は涼しい風が吹いて幾分か暑さがマシになるところである。 🔁 SNSが普及して、自分の意見を自由に気軽に述べやすくなった。noteもそうだし、ブログもそうだ

"水に流す"ということ 2

愛に溺れたいとも酒に溺れたいとも少しも思わない。どんなに落ち込んでいても誰かの愛とお酒の力、その2つだけには頼らないと決めている。ただ誰かの内なる「感情」には溺れてみたいと思う。誰かそのものになって、誰かの感情そのものを分かりたい。誰かが秘めている感情そのものを内側から感じたい。 内なる「感情」に触れることはできても、内なる「感情」に溺れることはできないだろう。できないとわかっているからこそ、なおさらそれを望んでみたくなってしまうのだ。 🔁 おとといの続きでも書いていく。