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咳をしても金魚【#シロクマ文芸部】

咳をしても金魚。
この短いメッセージが届いたあと、彼女からの連絡がなくなった。僕はとても動揺した。そもそもネットで知り合って遥か遠い街に住む本名も分からない彼女とは、メッセージを取り交わすのみの付き合いで、それが途絶えてしまえば他に連絡手段はない。そんな儚い付き合いでも僕は彼女が大好きで、おくびにも出さないように振る舞ってはいたが、彼女からのメッセージ無しでは暮らしていけない気さえしていた。
最初、唐突で続きのないこのメッセージにいったいなんと返事をすれば良いのか分からずに、何か続きがくるのだろうと僕は待っていた。だがいくら待っても続きのメッセージはこなかった。待ち過ぎてしまったのでこちらからなんと返せば良いのか分からなくなってしまった。気軽な言葉がいいのか気遣いの言葉がいいのか。それかこれは僕に対しての挑戦状のような、謎解きのような、上手く答えないと失格になってしまうような、そんな恐ろしく重要なものなのではないかという疑いの気持ちに不安が増していき、「どうしたの」とか「咳が出るの?大丈夫?」とかそういうメッセージを書きかけては消し、書きかけては消し、その日が終わってしまった。次の日も終わってしまった。しかし一日何度もメッセージをやりとりしていた彼女からは何も来ないままだった。
どうしたらいいのだろう。とりあえず「咳をしても金魚」と検索してみた。ヒントになるようなものは当然見つからなかった。金魚の飼い方やアレルギーに関する記事が並んでいる。彼女は金魚を飼っているのだろうか、飼おうとしているのだろうか、そんなことも分からない。今更ながら、彼女への気持ちの大きさに対して彼女へメッセージ以外の手段がなく情報もない自分の無力に絶望を感じた。このまま彼女は僕の生活から消えてしまうのだろうか。一度だけメッセージに添付して送ってもらったピンボケの写真の小さな彼女の姿を思い浮かべてみる。僕の中の彼女はそのピンボケが自動的に修正されて生き生きとした姿になっていたのだが、今はもう元のピンボケの姿しか浮かばなくなってしまった。

咳が出始めた。ごほごほとしばらく止まらなかった。ショックで風邪を引いたのだろうか。そうだ、金魚を飼おう。僕はコロナでないことを手持ちの抗原検査キットで確認すると、咳止め薬を飲みマスクをして金魚を買いにホームセンターへ出かけた。
金魚にもいろいろな種類があると知った。色も赤や黒だけでなく、3色混じったタイプもある。僕が買ったのは店の人が買いやすいと勧めてきた和金のコメットという品種で、名前の通り彗星のように長く伸びる尾が特徴だという。優雅な尾を持ち美しい赤と白の更紗模様の金魚は、どこか連絡のつかなくなった彼女を思わせた。
家に戻り、整えた水槽の水草の中を、ゆったりと泳ぐ金魚の様子を時折激しく咳込みながら眺めていると、静かな、泣きたいような気持になった。もちろん泣きはしなかった。

風邪をこじらせて寝込んでいたのだと彼女からメッセージが来たのは、僕も高熱に寝こみ、やっと起き上がれるようになった日で、あの謎のメッセージから10日ほどたっていた。僕も風邪で寝込んでいた、あのメッセージはどういう意味だったのかと彼女に問うと、彼女は分からないと返事をよこした。急激に体調が悪くなってきた時で朦朧としていたから、と。
「金魚をかった」僕は金魚の写真を添えて彼女にそうメッセージを送った。君に似ている気がした、と書くのはやめておいた。今、僕の彼女への気持ちの10分の1ほどがこの金魚に移動した。僕の心は少し軽く明るくなっていた。

(了)


小牧幸助さんの企画に参加しています。


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