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羽の移動販売車

花の終わった葉桜の公園で、私は子供を砂場で遊ばせ、ベンチでまどろんでいた。とても疲れていた。うとうと、うとうとしていると公園の横の細い道路をゆっくりと走る、通りすがりの移動販売車が品物を宣伝する声が耳に入る。まるで夢の中から聞こえてくるように。
「羽、羽、羽はいかがですか?あなたはどんな羽が欲しいですか?」可愛らしい声が客を呼んでいる。私はまどろみの中から、ああ羽、ほしいなあ、と思う。
「美しく優雅な蝶の羽、ピンと速いトンボの羽、水玉が可愛いテントウムシの羽、美しい歌を奏でるスズムシの羽、七色に輝くタマムシの羽、さあどんな羽がお好みですか?」どんな羽がいいだろう。そうか、羽って飛ぶためのものだと思っていたけれど、美しい音を立てることもできるのだなあ、と私は夢の中で虫の音を思い浮かべる。でもやっぱり羽を買うのなら付けて空を飛んでみたい。やはり蝶の羽がいいだろうか。
「蝶の羽にもいろんな羽。モンシロチョウの白い羽、アゲハチョウの黒い羽、シジミチョウの小さな羽。さあさあ、どれが良いですか?」ああどれがいいだろう。私はもう大人なのだから、アゲハチョウあたりが妥当だろうか。
「お客さん」目の前に立った販売員の少年が言う。「妥当ってなんですか?妥当って。欲しい物、あなたが本当に欲しい物、心から欲しい物を買うのです。大人なのになぜそんなことも分からないのですか?」と厳しい声で言う。私はすっかり恥ずかしくなって子供みたいにもじもじしながら「そうよね」と口の中でつぶやき、車の荷台に作られたショーケースの中を覗き込む。そうだ、本当に欲しい物を買おう。羽を買う機会なんてきっともうないのだから。
「じゃあ、それをください」
私はアオスジアゲハの羽を指さした。憧れのアオスジアゲハ。黒に縁どられた美しい青。夜と昼の空の色。
「はい、分かりました。すぐにお付けになりますか?お持ち帰りになりますか?」「すぐ付けてください」「はい、分かりました。お付けします」
私がお財布から500円玉を一つ、販売員の少年に手渡すと、少年はくるっと私の背後にまわり、伸びあがって肩甲骨のあたりをトントンとした。直後、私の背中はふうわりと温かく軽くなった。
あ、っと思うともう体が浮かび上がり、背中に着けたアオスジアゲハの羽が私を空へと向かわせる。足が地面を離れるなんて。空気が今までと違う絡み方で私に纏わりついている。風に含まれた光が身体じゅうを包んでいる。ああまぶしい。さあ空へ。

「ママ」
幼い娘が私を呼んだ。
「もうおうち帰ろう」
私は目をひらいて娘の姿をじっと見る。娘も私をじいっと見ている。砂遊びの道具をバケツに片付けて、それを手に提げている。
「そうね、帰ろうか」
私は立ち上がり、娘と手をつないだ。
「ママ」「なあに?」「飛んでっちゃだめ」
分かった、と私は頷く。
「でも」
「みぃちゃんは何の羽がほしい?」
問われて娘は考える。「みぃちゃんは」
「ミツバチの羽。ハチミツを集めるの」「そう。ママにも分けてね「うん」
道路にはもう羽を売る車はいない。どこかへ走って行ってしまったのだ。ミツバチの羽は売っていただろうか。私は思い出そうとしながら娘と歌を歌いながら帰った。


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