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「私の引きこもりの理由」は「感情のガード」だった

昨夜

同い年の知人のお通夜に行ったことをきっかけに

私の引きこもりの理由について深掘りしてみた


人と関わると

自分だけでいるより

感情の起伏が起きる

多分、それを避けているのだろう


人と関わると

思わぬことも起きる


楽しいこともたくさんある分

腹の立つこともあったり

悲しいこともある


昨日の知人のお通夜には

気が向かなかったけど

結局オットに「行こう!」と言われて参列した。

「同い年やし、こういう時は行っとこう」と

どういう時?と思いながら参列。


故人は

きれいなお顔で眠っているようだった。

音楽を教えている人だったので

彼女が子供たちに教えてくれた歌や音楽が流れている中で

献花をするという

素敵なお別れの会だった。

改めて故人の人柄が偲ばれた。


帰り道、自分が感じていることを言葉にしてみた

たくさんの人たちの涙

それは私にとっても懐かしい場所を共にした懐かしい人たちの涙

私がその人たちとの交流も避けて

引きこもる理由


多分、ほかの人たちのように

涙を流すことすら避けているんだ、と思った。


昔、父親に「泣くな!」と言われたことを

忠実に守ってしまう自分がいることに

大人になって気づいた。

無意識化のコントロール

「お姉ちゃんだから、泣いちゃダメ!」

小さい私が言うのです。

意識化できたのに自分の感情を解放できない。

奥深い牢獄に閉じ込めてある感じ。


そこにいく鍵すら持っていなくて

見つけたとしても

こんどは「悲しみ」を解放するためのボタンが見つからないだろう

「涙を流す」ことを自分に許すボタンが見つからない


今更、父親のせいにする気はなくて

気づいたら自分で開放すればよいのだけど

それを避けているのではないかと思った


そして先日も書いた、

「怒り」という感情も封じ込めている気がする


喜怒哀楽という感情は

どれも人間だからこそ持っているものだと言われる

人間に生まれて

その4つの感情を持っているということは

この地球というゲーム盤で

それを感じ切って生きる、ということも

生まれてきた理由なのではないかと思うのだけど

私は

平穏な気持ちで

感情を乱されることなく

ご機嫌で生きたいと願ってた、昨日まで。


私は喜怒哀楽の中の「怒」と「哀」を

封じ込めて感じないようにしてきた

悲しい映画は見ないと決めているし

何より涙が出ないもの

「怒」と「哀」を避けてきた分

「喜」と「楽」も少なくなって

平穏だけど、それでいいのか?

いいのなら、なぜ心がざわつくんだと思う?


本当は

私はもっと心を動かしたいと思っているのではないか


どうなんだろう

悲しみを感じたくない

怒りたくもない

しんどいもん。。。って、自分の中から声がする


でも、この生き方だと

私は自分自身を生ききれないように感じているのも確か。


泣いたり笑ったり

怒ったり悲しんだり

どれもオッケー

心を動かして生きてみないか?

ものすごく感情をガードしているんだな。


どうしたい?

自分に聞いてみる。

あらゆることを手放して

どんな波が来てもどんな風が吹いても

ゆったりと身をゆだねてみたい

そんな平穏が欲しい


喜びがあれば感謝し

怒りを感じれば怒り、そして手放し

悲しければ涙を流し、

楽しければ大いに笑う


そんな風に

湧き上がる感情に、素直に正直に生きる

そんな生き方をしたいと願っている

そんな気がしている


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