村上春樹『レキシントンの幽霊』文春文庫
村上春樹は長編よりも余分なものが切り落とされている短編の方が好みだ。中でもこの短編集は好きで何度も読み返した。「レキシントンの幽霊」「緑色の獣」「沈黙」「氷男」「トニー滝谷」「七番目の男」「めくらやなぎと、眠る女」――どれも人間の(ある種の人間の)孤独が描かれているように思う。その孤独はしんと静かで、冷たいものだ。孤独は人の根源的なもので、どうしようもないのかもしれない。あるいは、自分以外の要因があって、そのような冷たい孤独がうまれているのかもしれない。
いくつかの作品では、冷たい孤独はただそのまま描かれているように思える。でも「沈黙」や「七番目の男」では主人公はそれに抗おうとする。
「七番目の男」は主人公が子どもの頃に台風の大波に巻き込まれそうになる話だ。彼はかろうじて逃げることができたが、一緒にいた友だちは波に気がつかず、波にのまれてしまった。友だちはいったん波にさらわれてしまうのだが、次に寄せてきた大波が主人公の目の前に友だちを連れてくる。そのとき、彼には波の中で友だちが大きく口を開いて彼に笑いかけているのを見た、と思った。(ここ、非常に怖い。)彼は自分が友だちを助けることができたのに、違う方向に走って逃げてしまい、助けなかったという強い自責の念を抱えている。もうふるさとの町に帰ることもできない。悪夢にうなされる日々がつづく。
しかしあるとき、親が亡くなって家が処分されたため、子ども時代の荷物が送られてくる。その中にむかし友だちが描いた絵の束が入っていた。勇気を出してその絵を見るうちに、彼はあの事件をもう一度考え直すことになる......。
彼が最後に言うことば。
「私は考えるのですが、この私たちの人生で真実怖いのは、恐怖そのものではありません」、男は少しあとでそう言った。「恐怖はたしかにそこにあります。 ......それは様々なかたちを取って現れ、ときとして私たちの存在を圧倒します。しかし何よりも怖いのは、その恐怖に背を向け、目を閉じてしまうことです。そうすることによって、私たちは自分の中にあるいちばん重要なものを何かに譲り渡してしまうことになります。私の場合には――それは波でした」
今回この短編集を読み返して一番印象に残った言葉だ。そういえば、村上の長編小説でも主人公は物語の終盤に恐怖に襲われるが、そのときなんとか戦おうとするのだった。
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わたしがこれを書いているのは2021年7月で、「七番目の男」を読んだ翌日に熱海で大きな土石流が起きた。今の時点で何人が犠牲になったかはわかっていない。ニュースを見ながら、どれだけたくさんの人が絶望的な恐怖に襲われただろうと思う。
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