見出し画像

國分功一郎、熊谷普一郎『<責任>の生成:中道態と当事者研究』新曜社


ここをしばらく更新できなかった。実は、あるところで発表しなくてはならなくなり、前から気になっていた中道態のことをもう一度考え直そうと、しばらく再読、再再読していたためだ。(けっきょくこのテーマは自分には無理だと思い、別のテーマにしたのだけど。)

國分功一郎さんの本は『僕らの社会主義』『中道態の世界』『暇と退屈の倫理学』と読んできて、これが4冊め。この本は医療の話がかなりあるのでわたしには難しく感じたけれど、よくわからないながらも自分にとって大事なことが語られている気がして、一度通読したあと、また再読した。(ついでに『中道態の世界』も読み直した。)

中道態というのは、古代の言語にあった<態>だ。現在の言語では<能動態>と<受動態>が対立関係にあるけれど、以前(たとえば古代ギリシアのある時期まで)は<能動態>に対して<中道態>というものがあった。<中道態>とは「生まれる」「死ぬ」など、主語を場として起きる動作を表すものである。<中道態>はやがて再帰動詞や自動詞や受動態に変わっていく。そしていまのように能動態と受動態の対立になってくると現れてくるのが意志の問題である。ある者がある動作をするときに、なんらかの意志をもってやったと考えるようになるのだ。そしてその結果、その行為には責任が生じることになる。

けっきょくわたしが気になっているのは「意志」と、それにかかわる「選択」の問題だと思う。人は何かの動作を行うときに、明確な意志をもってやるわけではなく、ほとんどの場合はまわりの状況からなんとなくそれをやってしまうことが多い。決して確信をもって自分の選択をしているわけではない。

ここで思い出すのは『急に具合が悪くなる』の下のような言葉だ。

...だとしたら、選ぶときには自分という存在は確定していない。選ぶことで自分を見出すのです。選ぶとは、「それはあなたが決めたことだから」ではなく、「選び、決めたこと」の先で「自分」という存在が生まれてくる、そんな行為だと言えるでしょう。(略)偶然という、自分ではどうしようもないものに巻き込まれながら、その偶然に応じるなかで自己とは何かを見出し、偶然を生きることであったと言えます。

人間が生きるってそういうことなんだ、人間とは自分だけで迷いなく立つことなんかできない弱い存在なんだな、と自分の来し方を振り返ってもそう思う。そして、たとえば、障害があるために問題行動を起こしてしまう人が、その行動自体をその人と切り離して、「外在化」し、「免責」することで初めて自分がしたことの責任を引き受けられるようになるという話も、すごく納得できてしまう。本書では自閉症の人などに焦点が当てられているけれど、特に明らかな障害を持たない自分でも思い当たることが多かった。

國分さんたちは、意志を持つことは過去を切り離そうとすることだと言う。いまの新自由主義の世の中で、強い意志を持ち着々と努力して成功する人がほめそやされるけれど、それができる人は過去を切り離すという不自然なことをしているのかもしれない。(その典型として映画のランボーの話が出る。)

中道態的に生きることを勧めるわけではない、と著者たちは言う。それはそう。だけど、いまの世の中で立ち止まって中道態がふつうだった世界に思いをはせることは、人間について、自分について、正直に振り返ることではないかと思う。ちょうどいま東京ではオリンピックが政治家たちによって強引に開催され、強い<意志>で努力した選手たちがメダルを取って喝采を浴びている。選手たちは過去に目をつぶり、広い世界で起きていることに目をつぶって、非人間的な何かを目指しているようにわたしには思える。中道態の話はあの世界とは対極のものだ。でもこれからますます斜陽になっていくこの国で、人間が人間らしく生きるために必要なのは、強い意志を持つことではなく、弱くて傷つきやすい人間の中道性を意識することではないかと思うのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?