小池昌代『くたかけ』鳥影社
ヘンテコな題名の小説だが面白かった。面白さを頭だけじゃなく身体で感じた。中年以降の女性が読んだらきっと気に入ると思う。わたしは友人にわざわざメールして「読んで!」と強く勧めてしまった。ちなみに「くたかけ」とは「鶏」の古い呼び名らしい。
主人公の佐知は高校生の娘と二人暮らし。父は亡くなり、母は実家でひとりで住んでいる。娘はテニスに熱心だがあるときボールが目に当たる事故のため、テニスをやめて家でひきこもりがちになる。母と娘は仲が悪いわけはないが特によいわけでもない。そこに現れるのが「小磯さん」という変な男だ。マッサージや指圧が仕事で、亡くなった父も小磯さんの世話になり、現在は母も親しくしているらしい。この男が佐知の家にも遠慮せずに入り込んでくる。
この男がいったいいい人間なんだか怪しんだか、金目当てなんだか親切心からなんだか、よくわからない。おばさんみたいに女同士の話題にも自然に入ってきたかと思うと、マッサージという肉体をさわる仕事だからどうしても男性を感じさせ、警戒させたりもする。佐知は理知的な女性で、この小磯がどうも気に入らない。離れた街に住んでいる母は少し認知症の心配も出てきて、佐知たちと一緒に暮らすことになるが、これも小磯の強い忠告から。娘も小磯のおかげで妙に心を開き始めた。女3人の家で、小磯の強引な提案で鶏を3羽飼うことにもなる。
この小磯という男のキャラクタが小説の肝だろう。たいへん胡散臭い。どんな食品を食べろとかうるさく言うし、光を信奉する宗教じみたものに所属しているようだ。しかし、彼が心と身体をときほぐす技は佐知も認めるしかない。父が亡くなったときも、マッサージで緩和ケアのようなことをして看取ってくれたらしい。「看取り師」でもあるのだ。人が生まれてくるときに、「助産婦」が存在するように、人が死ぬときも「看取り師」がそばにいてくれたら、穏やかに死ねるのかもしれない。「生まれる」とか「死ぬ」とは心の出来事である前に肉体の出来事だから。
作中で登場人物が小磯にマッサージしてもらい、滞った血が流れるようになり、肉がほぐれていく様子が何度も書かれるので、読んでいる自分の身体にも少しなにかが起きるような感覚がある。でも佐知は最後まで小磯に完全に気を許すことはなく、マッサージを受けながらも心の鎧を解かない。「あんた、頑固だね。救われないよ」と小磯にも言われる。(しかし読者のわたしも、もし佐知の立場なら同じような態度を取るだろうなあと思う。いや、もっと頑なになるかもしれない。)
やがて母は病を得て、佐知と娘、駆けつけた小磯に見守られながら死んでいく。
親という濃いつながりの人間が死んでいくことがどういうことなのか。人の死は残された者の「存在の底の砂をさらっていく」と小磯は言う。それは喪失であるけれど、解放でもある。最後の佐知のひらがなばかりの詩を読むとそれをつよく感じる。父も母も死に、娘は自分の手から離れていく。「もうだれも、ほんきでわたしを待っていない」。何かがすっかりなくなって、空っぽの場所に風が吹いていて、たよりないけれどこの上ない爽快感があり、希望がある。
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