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写真展「border」徹底ガイドvol.11 見えない明日へ(border | Rohingya)

#26 Bago, Myanmar 2012

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ミャンマーの中心都市・ヤンゴンから列車に揺られて数時間。バゴー という街に、チャッカワイン僧院という大きな僧院がある。およそ1000人の若いお坊さんたちが共同生活をし、住民の喜捨を受けながら暮らしている。宗教と生活が結びついた光景。何人もの少年僧が、突然やってきたカメラマンの被写体となってくれた。

敬虔な仏教徒の国、ミャンマー。しかし、この国にも簡単には越えられないborderがある。

#27 Kutupakong Rohingya Refugee Camp, Bangladesh 2017

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 この写真に映る二人や背景に映り込んでいる人々も、#26の少年僧と同じくミャンマーという国で生まれ育った。しかしこの写真が撮影されたのは隣国バングラデシュに作られた巨大な難民キャンプ。山を削っただけの土地に100万人近い人々が暮らしていた。
 ロヒンギャと呼ばれる彼らはミャンマーで生れ育ちながらミャンマー国籍を認められない。それどころか民族浄化に等しい迫害を受け、borderを超えたのだ。

山という山の表面が削られて、粗末な住居が建てられているのだ。隙間もなく、ビッシリと並ぶその住居は、ブルーシートならぬオレンジのシートで覆われているものが多く、夕日を浴びたオレンジ色が山を埋め尽くす様は、奇妙な美しさを感じさせた。
 わずか3カ月余りで切り開かれたキャンプ。メインストリートには大勢の人が行き交い、小さな商店が並び、その場に座った老人たちが道ゆく人々をぼーっと眺めている。井戸では子どもたちがはしゃぎながら水を汲んでいる。裸足の子、そして裸の子が走り回る。キャンプの全体像が知りたいと思った僕は目の前にあった丘を登り始めた。土を削っただけの細い坂道。住居に半分隠れながら子供たちが顔を覗かせ、我々の動きを物珍しそうに見ていた。 
 丘の上から見えたのは、目の前の丘も、その向こうの丘も、さらにその向こうの丘も埋め尽くして続くオレンジ色の粗末な住居の連なりだった。「キャンプの全体像が知りたい」という思いは実に浅はかだった。地平線の彼方まで続く難民たちの住居の連なり…。それが「ロヒンギャキャンプ」の実態だったのだ。
 去年8月以降、ミャンマーを逃れてバングラデシュに渡った難民の数は実に65万5000人(現在は68万人)。それ以前にやって来た30万人をあわせて実に95万人を超える。実に和歌山県の総人口に匹敵する人数が、わずか12平行キロメートルの土地にひしめきあっている。
 菱田雄介 「ロヒンギャ、忘れられた難民たち」(中央公論 2018.4月号)より

このキャンプで僕が聞いたのは、同じ時代に行われたとは思えない(しかし現実に行われた)残虐な殺戮だった。子どもたちを取り囲んで銃を掃射したという話、それでも息のある子どもをナイフで殺害したという話、赤ん坊を地面に叩きつけて殺害したという話。僕の手を握り「私の息子を探してくれ」と訴える老人に返す言葉もない。

政治、宗教、民族。それが違うからと言って、人はそこまで残酷になれるものなのだろうか。しかし一方で、ナチスやポルポト派が同じような残虐性を見せてきたこともまた事実だ。この残虐性は、人間にあらかじめ備わったものなのかもしれない。
 山の中腹にある小さな教室には、ずらりと絵が並んでいた。子どもたちが自由に描いた絵。つまりそれは、子どもたちの脳裏に焼き付いている光景そのものだ。描かれたものを言葉で表現すると…花、船、機関銃、花、機関銃、ナイフ、死体、サッカーボール、機関銃、機関銃、花。
 明らかに機関銃の絵が多かった。銃口から小さな弾が連射される様子が描かれている。その横に描かれた細長いナイフは、いったん青く塗られた上に、真っ赤に塗られていた。煙をあげる自動小銃に、血を吸ったナイフ。どれも、実際に見なければ描けないものだ。
 菱田雄介 「ロヒンギャ、忘れられた難民たち」(中央公論 2018.4月号)より

ミャンマーには135の民族が存在しており、紛争は絶えない。しかしロヒンギャほど苛烈な扱いを受ける民族はないだろう。
国際社会の視線が集中したことで、ミャンマーはロヒンギャ問題での対応を迫られた。表面的な帰還策も決められたが住民の帰還は全く進んでおらず、コロナ禍はますます彼らを追い詰めている

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