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32年振りの再会

 朝8時半に自宅を出て、高速で北川はゆまの道の駅で休憩、そこから延岡までは高速が事故で使えず10号線で、南延岡のインターから再び高速で一気に高鍋まで、そこから木城に向けて小丸川に沿って山間や渓谷を20数キロ、二人して景色を横目に眺めては32年前に一度だけ通った記憶を探る。目的地、「日向新しき村」が近づくにつれて、更には村に入っても、本当にここに来たよなと、確認を重ね合う始末。それでも村に入り車から降りると、どこからか首輪のない可愛い柴犬が近づいて来る。省吾さんの姿を探すと向こうの方からまた別の犬が現れて、その後をゆっくりと歩いて来る人物が、ここの村の主、松田省吾さんだ。かみさんも車から降りて、32年振りの挨拶をぎこちなくする。省吾さんが放牧している豚の餌やりを済ませる間、記念館を観せて貰って、亡くなったヤイ子さんのお墓の前に行き、墓銘碑を掌で触って、来るのが遅くなったことを詫びて手を合わせて、その場で積もる話しを1時間と少々、私たちと省吾さんはそんなに親しかったかなと思う程に話があっちにもこっちにも弾んで、約束してあると言うNPOさんが来なければ、まだまだ話続けていたかも知れない。弾んだ話から一つだけ書き残しておきたいのが、こんな話だ。
 この地に入植した時、ヤイ子さんと一緒に住む家がない。一旦、農業を中断して、無償で2軒ほど1人で解体を請け負って、木造建築の構造を学んで、1年半で45坪の家をやっぱり一人で建てて、その様子を毎日、若かりし頃のヤイ子さんは楽しそうに見ていたと、懐かしそうに話して、それでと言う流れで、月日は流れて、ヤイ子さんが病気になって病院に通うのに、いつまでも自動二輪の後ろに跨って送ることにも無理があるからと、省吾さん50半ばで四輪の免許を取って病院まで送り迎えするようにした。それでヤイ子さんが5年前に病院で息を引き取るのを看取って、村に連れて帰ってから、葬儀やら何やらの儀式には全く頓着がない。その日に焼き場で焼くという流れになって、さて棺桶がないことに気が付いた。ヤイ子さんが住む家も自分で作ったから、棺桶も作ってやろうと思い立って、火葬場に寸法を聞いて、檜木で立派なのを作って納棺したら、ヤイ子さんが、乗り心地がいいわと笑って言うから、そうだろうと笑い返してやった。火葬場で火葬して骨を拾う段になったら今度は納める物がない、流石にこれは火葬場の人に頼んで既製品に納めて、この石の下、そうこの石、墓も自分で探して削って作ったのよ。私は何でも自分でやるのよ、昔っから。
 こんな話が次から次に飛び出すから、ついつい時間も忘れて聞き入ってしまった。また来ますと約束して村を後にしたけど、ヤイ子さん亡き後、省吾さんは食事や身の回りのことはどうしているのか、肝心なことを聞き忘れたことに気が付いた。でも、かみさんと帰りの車の中で話したけど、会いに行って良かった。ずっと引っかかっていた気持ちが、すーと流れて行ったような気がする。人との出会いって不思議だわ。32年間でたった会った時間はせいぜい4時間弱なのに、旧知の仲のような親密感に包まれた。省吾さん、また会いに行きます。

2020年10月31日

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