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社会参加してなかったのか

 JR九州駅無人化訴訟の第一回口頭弁論での平松弁護士の意見を聞いて、ずっと考えていた。
「私は原告のみなさんの不自由さを体験することはできません。そのため、駅無人化による被告の施策ではなぜ「合理的配慮」とは言えないのか、ということに常に思考を働かせ、想像力を強く鍛えなければならないと思っています。そうしなければ、原告のみなさんの訴えの本質を見抜けず、ひいては社会に厳然とはびこる障がい者差別を見逃してしまうことになるからです。」
 弁護士の立ち位置の確認のための自問自答であるのと、もう一方では、裁判官にも同様の視点をもって欲しいと訴えているのだと思う。口頭弁論の後に弁護士会館で徳田弁護士が言っていたように、これから先の裁判で裁判所を取り巻くくらいの世論と膨大なアンケートの山をもって臨まなけれなならないのだと話していた。
 ただしかし、これからの闘いに必要な世論を構成する多くの人が、平松弁護士と同じように常に思考を働かせること、そして想像力を強く鍛えて、障がい者差別を見つけることが出来るだろうか。
 1970年代から80年代に活動をし、社会に大きな衝撃を与えた「青い芝の会の行動綱領」に厳しい5つの提言があって、その中の1つがこの10年くらい頭から離れない。
一、われらは、健全者文明を否定する。―われらは、健全者のつくり出してきた現代文明が、われら脳性マヒ者を弾き出すことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中から、われら独自の文化をつくり出すことが現代文明の告発に通じることを信じ、且つ行動する。
 この行動綱領が世に出て半世紀が過ぎた。町のあちこちにスロープが付き、駅にエレベーターが設置された。障害者が社会に参加出来るようになった。時々、目を覆わんばかりの悲惨な事件も起きた。その都度、優勢思想を追いやり、差別の解消を声があがる。けれども、未だに福祉サービスを利用する障害者は社会参加を目標設定にされてしまう。半世紀経ってもなお、障害者が社会の外に居たのかと愕然とする。いつになったら健常者の住む社会に加えて貰えるのだろうか。こう書いてしまうと、私は見えない壁の健常者側に居ることになってしまう。何を偉そうにと言われそうだ。
 自立生活センターに身を置いて間もない頃に、とある県の自立生活センターの老練な代表に初めて会って、「はじめまして、頑張りますから、よろしくお願いします」と挨拶をしたところ、「私は健常者であるあなたを全く信用しません。」と言われて面食らって、何故かと聞き返した。すると、健常者を信用した結果が今の社会です。歴史が答えてくれてますよねと言われて、返す言葉を失った。ただ反面、妙に清々しく、社会の見え方が変わったのを覚えている。
 行動綱領は言っている。決して、健常者サイドで作られたシステムでは、障害者が事足りることはあり得ないのだと。この半世紀がそのことを証明している。そうか、健常者が想像力を培うまで待てばいいのか。いつまで待てばいいのだろう。さらに半世紀くらいか。もっと他に手はないのだろうか。やっぱりここでも青い芝の会の行動考慮に答えはあった。我らは健全者文明を否定すると。当事者自身が声をあげ、声を集め、制度設計をする企業の中枢に居座る健全者にとって替わるくらいのエンパワーを獲得することなのではないだろうか。これからの運動はたくさんの小さな声を集めるだけではなく、ヒエラルキーの逆転のための新たな仕組みを楔のように、あらゆる所に打ち込んで行くことが必要なのではないかと思う。
 青い芝の会の「青い芝」の由来は、芝はふんづけられても根が切れないところから来ているらしい。先日の大分市議選の投票率は48.18%だった。切れることのない草の根も、お笑いやクイズ番組で覆われて見えなくなってきているような気がする。

2021年2月26日

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