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セクハラと根性論

 私ら子供の頃からお医者さんごっこやったり、スカートめくりに興じたり、道端に落ちて雨に濡れたエロ本を教室で回し見ては興奮して眠れぬ夜を過ごしたり、授業中に突然、鼻から流血してみたり、先生に当てられて在らぬところが起立して起立出来なかったり、社会人ともなれば、団塊世代二世の大先輩たちが職場で若い子のお尻を触る姿に、いつかは俺もあんな大胆なことが出来るようになるぞと心に決めてポーっとなっていたら、時代はたくさんの勉強をしたみたいで、今まで、かつてのあんなことやこんな行為が実はハラスメントなんだと言うことになって、えーマジかよなんて心で叫んで、それ以来、そんな純真かつ不遜な思いは、表に出してはならない妄想へと追いやられてしまったのですね。そうかじゃあ私ももっと勉強せないかんと思って、学びはしたけど、根っこがバカだから、薄っぺらい。そんな奴が管理者なんてやってるからダメだわな。それに冒頭の主語が私らと、私だけではないような風を装って、半世紀も経ってなお、罪を逃れようと姑息な表現をすることも情けないわ。
 そして話は違うけど、ハラスメントに紐づけされて思い出すのはこんな話。中学、高校、大学とずっと運動やってました。ご多分に漏れず昭和の時代は、親からは「あんたは努力が足りない」先輩からは「根性が足りない」と言われ続け、テレビでは「巨人の星」から「タイガーマスク」に「ウルトラマン」と愛と正義の人になるには、やっぱり歯を噛むように根性を育てなければならないのよと思い定める反面、根性は元々、資質としてある人とない人が居るに違いない、私はもしかすると、ない方の人ではないのかと立ちはだかる根性の壁の前で泣きべそをかきながら育ってしまう。先輩にしごかれた分を優しく後輩にお返しする快感にも酔いしれる経験も積みながら大人になって、あれはいかんかったと襟を正して、過ぎたことを反面教師にして社会に出て、育てられる側から育てる側になったら、時代の遺物と言われる愛と勇気の根性論が喉元まで出かけるのを必死で抑えて、同年代と話すとついつい最近の若いもんはなんて言いながら、根性論を懐かしむわけですよ。若いもんから何故そうするのかと問われて、お前は浪花節を知らんのかと、本当は浪花節なんて父親の時代の話で知らないくせして問い返すと、言ってることが分かりませんと返って来る始末。まあ時と場合をわきまえないとけない、使い方を誤ってはいけないことも十分承知してもいるけれど、もう本質は変われないのよ。セクハラと根性論も通じない若者たちは、何を頼みに踏ん張って前に進むのだろうね。いらん心配だわな。はいはい、老害と思って見逃して下さいませ。


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