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読書が好きだ

 いつも誰かの人生を読んでいる。学生時代に一頃、勉強が嫌で、未だに嫌いだけど、読書に逃げていた時期があった。結婚して読書どころじゃなくなって、子供らが成人したあたりから、そう、人生の折り返しかなと思った辺りの下り坂、大きく転んだ後に恐る恐る立ち上がって、ゆっくりと降り始めたあたりから、再び本を読み始めて、気が付くと読むことが楽しくて堪らなくなり、高じてここ数年は本が手元にないと不安になるようになってしまった。
 目が覚めて、シュラフの中で昨夜、寝落ちして読み終わったページを探す。朝のトイレでページを捲る。通勤途中の信号待ち、左手に本を挟んでぺージを捲る。会社に着いて、PCが立ち上がる間に、またページを捲る。仕事の合間、かつてはタバコを一服していた時間だろうかページを捲る。昼休みの残り時間にページを捲る。出先の銀行やら何やら、待ち時間があればページを捲る。仕事が終わり書類を片付けて、帰る間際にページを捲る。帰りも長い信号で止まればページを捲る。コンビニに着いたら、降りるまでのつかの間にページを捲る。陽が落ちても読めるように、サンバイザーに読書灯まで付けてしまった。帰宅して、夕食を食べたら、一服替わりにページを捲る。トイレに入ってページを捲る。私が本を持ってトイレに立とうとすると、子供たちが慌てて待ったをかけて先んじる。寝袋に包まれてもページを捲る。こんな本との共生生活が日常となってしまって久しい。
 本の中には様々な時代の多様な人たちが息づいている。1冊の本を読む間は、その主人公と寝食を共にしているのかも知れない。一つの人生しか生きられず、しかも残されたバリエーションの振れ幅は極めて細いが故に、本の中に住む人たちの様々な生き様がまた実に面白い。若い頃から抱え込んだ劣等感、その反動で培った訳知り顔の処世術、うまく行かない人間関係も数多く抱え込んだまま歳を重ねている。たくさんの人たちに頂いた恩も返せずに不義理の山は高くなるばかりだ。後悔の上をとぼとぼ歩くと、頁に書かれた文字の地平に登場人物の生きとし生ける姿が浮かび上がる。何かを成し遂げた人よりも、何も成し遂げない市井の人の物語がいい。
 読むための本の捜索は書店に行く。書店もまた楽しい空間だ。空き時間を見つけては2週間に1回は寄ってしまう。15分から30分程度、ゆったりと楽しみたいのでトイレは済ませておく。明林堂にBOOKOFFが定本屋だ。たまに、紀伊国屋書店にくまざわ書店に明屋書店、ジュンク堂書店の上り下りは使い勝手が悪くて行かない。BOOKOFFは大分、別府の3店舗を月1店舗くらいの頻度で回る。図書館には行く習慣を作れなかった。仕事を辞めて本の置き場所が無くなったら利用しようかな。
 書店に入る色とりどりの背表紙の谷間を歩く。森の中に佇み降り注ぐマイナスイオンを浴びているような心地良さだ。視線をジグザグに走らせてタイトルを追う。文庫本の背表紙タイトルは老眼には難儀するからもっぱら平積みを楽しむ。新書タイトルも見えにくい。そこへ行くとハードカバーは楽しい。芥川賞に直木賞、ミステリー大賞にノンフィクション大賞、谷崎潤一郎に太宰治、それから本屋大賞に至るまで、なかなかの引力で引き付けてくれる。店員イチ押しなんてPOP入りの本から、作者来店のコメント入りの本まで、入り乱れるように並んでいる。ハードカバーで読むか文庫になるまで待つか、長編時代小説の合間にドキュメンタリーを入れるか、若い作家の小説にチャレンジするか、間違いのない作家にするか、あれこれと悩むのも楽しい時間だけれど、その日の気分に合う本がなく、何も買わずに少しがっかりして出ることもある。そんな日は帰ってから、積読の本棚にチャレンジするが、これがまた一度は読みたいと思って買って帰って来た本だけに、選択基準のハードルが勝手に高くなってしまってやっかいだ。覚めてしまった恋愛と一緒で、なんでこんなの買ったのか、その時の気持ちを後悔しながら、かくして積読の山は高くなるばかり。
 手元に本がないと不安になってしまうことは最初に書いた。だから手元に本がなくなる事態を避けるために、いつも2冊以上は持ち歩くようにしている。そんなことをしていると、一冊を読んでる途中の中休みで、もう一冊を読み始めてしまう。すると、同時に3冊くらいを並行して読むことが多くなる。例えば、長編時代小説を数か月かけて読んでる途中に、ドキュメンタリーを1冊を1週間かけて、小説を1冊を3日くらい、エッセイを2日からいで読むような感じだ。そんな毎日の中でも、面白い本ばかりに出会うわけではない。難解な本は、分からなくてもブルドーザーのように時間をかけてがーと読み進んで行く。面白くない本に当たってしまった時は、途中で投げ出せないので、少しでも早く読み終わりたい、解放されたいと、三行読みから斜め読みで読了に持ち込む。
 読書の楽しみ方にも色々ある。本題とは関係のない楽しみ方があって、一つ例を挙げてみるとこんな風だ。読んでる途中に欠かせない栞のことだ。これがないとどこまで読んだかが分からなくなってしまう。時に勢い込んで買った本を、いきなり読み始めて中断する時、はたと栞を捜す、栞ひもが付いている本ならいいし、アンケートはがきや広告、定価カードを代用したりする。それすら見当たらない時は、端っこを折ることは本が可哀そうだからしない。まだ数ページなら表紙を巻き込んで一時の栞に替える。もっと読み進んでしまったら、そこらにあるもの、レシートでも割引券、千円札でも挟めるものなら何でも挟んで、どこかでちゃんとした栞と差替えてやるようにしている。さらに、読んでいると栞とまだ触れられずに先のページでペタリと静かに織り込まれたままに綴じ紐のページに追いつく、そのままそっとやり過ごして今までの栞を使うか、寝ていた綴じ紐をグイと引っ張って栞と交替するか、そんな刹那の迷いも楽しい。
 こんな具合で読んでると大方、月に10冊くらいは読める勘定になる。年間で約100冊といったところだ。日本国内で年間に75,000冊の本が出版されていて、一つの本屋さんには120,000冊くらいの本があって、私がこれから毎年100冊読むとして、さてどうだろう。砂浜に冷や汗を一滴落とすようなものか。それに読んだ本の記憶は、読んでいる先から消えて行ってしまう。残っているのは、遥か遠い昔語りに聞いたような聞いてないとうな微かな残り香のような印象だけ。このことは方向音痴の私が、一、二度通った道なのに、いつも新しい道を進んでいるような感覚に似ていると思う。それでもいい本に出会った後の、豊穣の文字の海に抱かれたような幸福感が暫く続いてくれる。これが堪らない。
 さて、つらつらと自分だけが気のすむままに読む話を、長々と書き散らかして来たけど、キリがないしネタも尽きたので止めよう。次はまた「書くことが好き」という話でも書こうかな。

2021年3月29日

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