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それは失礼だろう

 若い頃は友人の結婚式、親戚の結婚式と招待されては、当節の時価に合わせて泣きの涙で祝儀を準備する。30歳前後だったろうか、周囲は結婚式ラッシュとなり、どうか招待されませんようにと祈っていた時期もあった。中でも、貧乏学生時代に早々と結婚しやがった友人の祝儀に、当時20,000円なんて大金は振ってもないわけで、仕方ないから中身に「コミックのたり松太郎全巻でごめん」と書いた目録を入れて、お金の代わりに読み終わったコミック全巻を送って失笑を買ったことがある。やがて歳を重ねると、祝い事は減って、当然のように死に事が増えて来る。しかし死に事はそれはそれで悲しいことだけれど、香典代としては昔から3,000円あたりと相場は変わらないでいてくれるのは嬉しい。

 さて、問題はそんなことではない。小学校6年で毛筆1級の腕前を持っていたはずの私の筆文字が、どこでどう気が緩んでしまったのか、独特の進化を遂げて、工場の床に散乱した古釘を寄せ集めたような文字になってしまった。要は下手くそになってしまった。事務仕事でボールペンで書きつけるうちはまだ、オリジナリティを極めた字だと言い張ることも出来るけど、こと筆ペンとなると、その酷さが際立つ。自分ながらどう書いてもふざけた落書きにしか見えない。

 長いこと、のし袋の文字は誰彼に頼んでは代筆を頼んで切り抜けて来た。時に習字教室にでも通ってみようかとも思った。だって字の上手な人は、それだけで偉い感じがするし、どこに出ても恥ずかしくない感じが漂うからだ。とにかく、このへなちょこなフォントはコンプレックスの一つではあるけれど、何もしなければこのフォントのまま、偉くなれない人のままなのかと悩みは尽きない。けれど、もう還暦を越えたあたりからは、ありのままでいいんだと、思い込んでいいのだろうかと不安もあるが、思い込むことにした。致し方ない。せめて子供たちは、しっかりした書体を手に入れて欲しいと、奴らの書いた文字をも見ると、これはまた私の遺伝なのか、私よりも更に酷い。お前たちの字には芯がないと言えば、親父の文字のどこに芯があるのかと言い返される。その様子を我が家で一番字が上手いと言うか、大人な字が書けるかみさんが笑う。今は病気の進行で手元が震えて上手くは書けないけれども、それでも私たちよりも遥かに立派な字が書ける。

 話は元に戻るが、先の告別式でも仕方なく、ありのままでいいを言い訳にしてボールペンで書いてしまった。受付にそっと俯き加減に、文字の奴が大変な失礼をしてしまって、申し訳ありませんという思いで差し出す。仏事だから表だって笑われることはない。でも、きっと事が済んで、香典袋の集計の段になった時、遺族の誰彼が目を止める場面を想像するに、改めて、申し訳ありません、かような思いで書いてございますので、重ねてご容赦下さいという意の付箋でも付いているかのように伝わることを祈るばかり。なんともこの手指から出力される錆釘にも似た文字列たちを、これからもそっと見守って頂けるとありがたい。

 蛇足ながら、身から出た錆という言葉がある。我が身から意図せずに出て行くものたちが、世間に様々な迷惑をかけてしまうことが、これまでの人生に数えられないくらいにあった。目汁鼻汁、加齢臭から口臭、そして、世間を憚る傍若無人な文字から言葉まで。そう、この言葉の奴らも、随分と禍を招いたわ、思い出したないくらいに。以上、綺麗に終わらせたい話題だったけど、なんとも納まりが悪いお話になってしまった。だったら書かなきゃいいのにと思うけど、これはこれで書かずにいられない。謝々
20220112

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