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タバコと立ちしょん

 私の子供時代は昭和30年代かたら40年代、少年の私の目に映る大人たちは、ほぼ全員がタバコを吸っていたような気がする。大分駅の南口、当時は裏駅とか駅裏と呼ばれていた場所で、両親は靴のあつらえと販売の小さい店を営んでいた。実に多種多様な大人たちが用もないのに寄って来る店だった。国鉄の人、車の営業の人から銀行員に近所の人まで、人が来れば母親がお茶やら菓子やらを出すから、朝から夕方まで人が切れることがない。そんな客からも父親からも、しょっちゅう角のたばこ屋にタバコを買いに走らされる。ハイライトにシンセイ、イコイにワカバにピース、お金を預かって角のタバコ屋までダッシュ、時々入る駄賃がいい小遣いになる。狭い店でもくもく、時には頭に吹きかけられて、髪の毛の間からもくもくと立ち上がる煙を見ては皆ではしゃいでたのを覚えている。兎に角、この時代の大人は所かまわずタバコを吸って吸い殻はポイ捨てが当たり前の時代だった。
 喫煙と同じようにやってたのが、立ちしょんべんだ。今考えれば信じられない程に、大人も子供も所かまわずに、電信柱に塀、野っぱら、もう所かまわずの時代だったのだ。子供たちも男女を問わずに、あちこちで立ったり座ったりと無邪気なものだったのよ。
 さて、そんな時代のとある秋の日曜日、小学校も高学年くらいだったかな。友達3,4人で近所の野山を駆け回る。野山の小径の真ん中に、誰かが捨てたのだろう、灰皿をそのままひっくり返したような吸い殻の小山を発見、きっと何にも考えてなかったんだな。おーと歓声をあげて、興味本位に一人一本ずつ咥えて、誰かが持っていたマッチで火を点けて吸ってみた。皆でゲホゲホと咳込んで笑い転げたことがある。この時が喫煙とのファーストコンタクトだった。
 時は一気に一回りくらい流れて次に煙草を吸ったのは19歳、我が家の次男が16歳から吸ってるから、父親の私は真面目なものだ。予備校の学生の分際で生意気に父親と同じ銘柄のハイライトから吸い始めた。悪友が吸えば真似して吸ったのが始まりだ。この時もまだ何も考えてなかった。国民のタバコはシンセイで、労働者のタバコがハイライトとか言ってた時代だ。ただただ格好つけだけで吸ってたような気がする。私大の受験で上京した2月の寒い蒲田駅前、ダッフルコートに身を包んで吸ったハイライト、吐き出す煙と、この時の心細さ切なさは今も覚えてるわ。右も左も分からなかった頃だったからね。吸い殻は足元に投げて、革靴で踏み消したと思う。きっとそんな仕草にも酔っていたのだろう。
 それから約10年間、雨の日も風邪の日もゲホゲホ言いながら、気管支カタルでのたうち回りながらも吸って、麻雀なんかやってた頃には、日に3箱も吸った不健康な時期もあった。銘柄もハイライトからマイルドセブン、セブンスター、ショートホープに時々ピースに缶ピー、洋もくはケントのラークにキャメル、他にもあったけど忘れてしまった。
 さて、そうこうするうちに、タバコを吸いながら就職して、職場でも飲み会でもどこでもタバコを吸ってたら、何も考えなかった私もついに結婚することになって、この時ばかりは流石に少し考えた。パチンコに給料を全部持って行かれていた。通帳残高3万円で幸せになんて出来るのかお前。そうだ結婚と引き換えにギャンブルとタバコも止めようう。女性の力は凄い。その力が今も健在なのがもっと凄いけど。その後15年も禁煙は続いたのだ。
 ところが、仕事のストレスから45歳にして、また喫煙再開だ。この時の居酒屋あたりで吸ったタバコの旨いこと。それから家族や世間の冷たい目に晒されながら10年吸って、55歳だったか100キロウォークの初チャレンジと同時に再びの禁煙、これで今に至るわけだ。ただ、もう吸わなくていいかな。自転車のロングライドライフを楽しむのにタバコは邪魔でしかないわ。立ちしょんももう長いことしてないしね。ただ、映画で主人公がタバコを吸うカットは今でも堪らんなぁ。
 以上、まだ書き足りないけど、しょうもない長い思い出語りにお付き合い頂いて、ありがとう。

20210908

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