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ボッチだった青春

「蹴りたい背中」という綿谷りささんの小説は、何度読んだかわからない。

中身の前に表紙のデザインも大好きなのだが、見ただけで青春って青くて黒くて薄暗くて眩しい時間だったなと思いだす。

私は小学校を三つ行った。
父親の仕事の関係で仕方なく、それもいつも急だったが、転校はそんなに嫌ではなかった。
なんだか、新しい自分になれる気がしたからだ。

でも新しい環境ではいつも、最初だけ注目を浴びて、すぐに一人になった。

私も周りの女の子たちみたいに、グループに入って、お揃いのキーホルダーを持ちたいという気持ちもあった。
でも私は私。どこにも属さないんだから。という意地みたいなのが強かった。

でも内心、一人で行動するのは怖かった。

中学に入り、高校に入り、進学するたびに小学校のころより「グループ」で居なければならないとう文化はどんどん強くなった。

中学のころは、一つの教室に三つの大きなグループがあった。どの他人がみてもわかるくらい、明暗がはっきりしていた。私は、自ずと真ん中のグループ(明暗の間)になった。

高校に入ると、いつめん(いつものメンツ)という言葉が流行った。わたしにいつめんはいなかった。

私はいつも孤独だった気がする。明るい、目立つグループに入りたいとも、暗い地味なグループには入りたくないとも思わなかった。
ただ、本当の友達が欲しかった。

蹴りたい背中は、主人公がいわゆるボッチで、同じくボッチの奇妙な男の子に歪んだ恋心を抱く物語だ。

主人公が一人で行動する時の描写や感情が、私には痛いほどわかるのだ。

この小説での蹴りたいという意味は、男の子に対する、言い表せない思春期の乱暴な気持ちを表しているのだと思うが、私は一人でいることを恥じている自分と本当の友達が欲しいという寂しい自分のモヤモヤを、蹴りたい!こんな世界出て行きたい!という感情を思い出しながら読んでいる。

それは苦くて暗くて寂しい気持ちではなく、自分でいたいという強い気持ちなのだ。
社会人になってグループで居なければならないことはなくなったし、本当の友達もできた。
でももっと大きな世間という組織に、飲まれそうになる。
自分は自分。忘れないで生きたい。



#読書の秋2020 #蹴りたい背中

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