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生まれてから幼稚園まで

何かに長けた子供と言うのは、大人たちの笑い話の中で期待される。
最初に生まれた子供というのは、非常にちやほやされるものだが、恐らく私の場合もそうだったのではないだろうか?

大寒の頃、私は生まれた。予定日を2週間以上過ぎていてからの出産は、当時でも珍しい自宅での出産だったと母から聞いている。
同じ敷地内に母方の祖父、祖母の家があり、父は自衛隊、母は事務員という家の長女として生まれた。

一番最初の記憶は二歳半頃、妹が生まれた時、母にミルクの入った哺乳瓶を渡され「あげてきて」と言われまだ生後間もない頃の妹のところにミルクを持っていった。

記憶では妹はその哺乳瓶を自分の手で持っている。ということは、生後半年はたっていたのではないだろうか?
その妹がミルクを残すのを心待ちにしていたのを覚えている。ミルクを少しでも残したのなら母に「飲んでいい?」と聞き、ソファーに横になり、そのミルクを飲んだ。

全部飲んだ時はがっかりした。ミルクが飲みたかったのか?はたまた「寝転んで飲むのが好きだったのか?」
最初の子供は親ではなく、「祖父母」にちやほやされるのだが、母親もまた「手のかかる赤ん坊」に、意識のほとんどが持っていかれるのだ。

「長女のための本」なるものもあるように、母親の愛情を独り占めしていた長女なる「私」は、突然わいて出てきた「妹」なるものに、戸惑いと喪失感を持っていたのかもしれない。

ここでひとつ他の家と違うところがある。母は妹が生まれ、後に弟も生まれるのだが、私のことを「お姉ちゃん」と呼ばせなかったのである。
母曰く、自分がすぐに「お姉ちゃん」と呼ばれ、寂しい思いをしたため、私のことを「お姉ちゃん」と呼ばせず「名前」で呼ばせたという。

今では妹も弟も私のことを「お姉ちゃん」と呼ぶのだが、名前で呼ぶことが母の愛情を均等に得たとは思えない。後悔とは「罪感」に似てる。
母は「果たせなかった愛情」を、「他の人とは違う」という「最新である」という「アイデンティティ」で満たそうとした。

ここでひとつ言っておきたいことがある。昭和の頃の本に「母原病」なるものがあったのだが、その他にも「母親が原因で子供が病気になった」という、一見真っ当に感じる心理学がはびこったことがある。

「心の基地はお母さん」という本も、当初核家族が進む中で母親は、それこそ縋る思いで、「子育て本」を読んだであろう。
「私の人生」を語る時、その登場人物なるものに「母」は必須であろう。

後に思ったのは、母にも母がいるということだ。そしてその「母にも」母がいる。辿りにたどった時、それは「人類の起源」に到達するのであり、中島みゆきさんの「誰のせいでもない雨が」という楽曲のごとく、それは「母のせいでもない」のだ。

だからといって今では、母に対して「憐れみ」など必要ないと感じる。
「私の半生」を書く時、親、または「育ててくれた人」に対してのネガティブな思いは、子育て本や心理テストなる本を読んで一端のカウンセラーに成りきり、「親である」という傲慢さにあぐらを描く、付け焼刃の「セラピスト」であろう。

私が生まれた二年後、妹が生まれ、その二年後に弟が生まれた。昭和時代、「良い子」であることや、主義主張ができないこと、すなわち「大人しい子供」は、親にとってステータスにならない。

五才の時にキリスト教の幼稚園に入ってから、私は徐々にこの「大人しい子」というレッテルを、大人たちばかりでない、周囲の子供たちからも言われるようになる。

幼稚園と言えば、当時は「一年保育」が普通だった。子供にとって初めての集団生活であり、初めての先生なのだが、この私を受け持ってくれた先生がとんでもない人だった。

キリスト教の幼稚園と言えば、12月の発表会は、大抵「キリストの生誕」を舞台にした劇を披露する。その際に先に幼児たちが楽器や歌を演奏するのだが、この練習の時に他のクラスの先生が私の方を見て何かしら注意をしてきた。

担当していたのは木琴で、真面目に叩いていたし、音も間違っていなかった私は、二回ほど注意を受けても自分のことだとは思っていなかった。
けれど、練習を終えて皆が順番に教室に戻る途中、担任の先生が私を待ち構えていてあろうことか「木琴を叩く棒」で、私の頭を叩いたのだ。

他には幼稚園ではたまにおもらしをする子がいるのだが、私が失敗した時、その先生はヒステリックに怒りだし、乱暴に下着を下げた。
今の時代、このような先生がいたらどうなのだろうか?
非常に大問題であろう。このことを恐らく私は親には言っていない。
昭和の時代、親にとって「子供より先生が正しい」のだ。
もしかしたら親に言って、二重に怒られることを子供ながらにも避けようとしたのかもしれない。

「はじめの一歩」は、いつの時代も大切なものであろう。
私にとってそんな風に始まった「集団生活」のはじめの一歩は、散々なものであり、その後しばらくの間続くことになる「集団生活」の土台となったと思う。

親の次に影響を及ぼすものが「先生」ならば、それこそその「縁」は、「誰のせいでもない」のだが、一度引き合った以上は、責任は子ではなく大人である先生にある。

私は過分に当時先生に言われたことをそのまんま受け取ってしまい、失敗したことがある。
そのお話は次回にまたしたいと思う。




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