「アイネクライネ」の歌詞考察
承認欲求とは、他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という願望であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる。
さて米津玄師の楽曲の中で、最初に愛された曲は「アイネクライネ」ではなかろうか?
この曲に関しては多くの歌詞考察が出ている。
2014年に発売された米津のアルバム「YANKEE(ヤンキー)」の中にある楽曲「アイネクライネ」は、優しいアニメーションと共に歌われているMVである。
この時の米津の年齢は23歳。大学を出た青年ならば、ようやく働き始めた年頃である。「ヤンキー」をただ粋がった若者だと定義するならば、そのアルバムの中にある「アイネクライネ」は、「達観」ではなく、何かの意図を持っているとは言えないだろうか?
先ほど、多くの歌詞考察が出ていると書いたが、実は何気ない言葉の中に散りばめられた「生命」、特に母子について書かれているものが多い。
詩と歌詞は似て相違なるものである。何かしらの例えを用いた時、「詩人だね」と言われる。暗号ではないダイレクトに用いながらも、情緒を忘れない。私たちは「感傷」としての「詩」をなかなか受け入れられないのだが、それがメロディーに乗った時に感じる「軽さ」を、どこかしら「素直」に受け止めている。
それが本意ではない時、世に出た瞬間感じる「不甲斐なさ」は、誰がどんなに褒めようと「対岸の火事」、私事ではないのだ。
さて、皆さんは「米津玄師の歌詞の謎」の記事を読んでいただけただろうか?
「ああ、なるほど」と思った方も、思わなかった方も、言葉を曲に乗せる時のある意味「不甲斐なさ」というのは、全てのことを詰め込みながらも、どうしても「言葉足らず」になってしまうことだ。
ただそこが「醍醐味」だと言うならば、納得できないことすら「うやむや」にしてしまう昨今の「美徳」を歌った歌が「アイネクライネ」ではないかと思うのだ。
すべてに理由がある。
必然なら偶然、偶然なら必然が出来てしまう。
世の中のことは「必然」ではなく、「理由」がある。
因みに、理由の反対語を調べると「帰結」と出てくるが、その意味は
「推理・議論・行動などが最後に落ち着くところ。決着すること」とある。
自由にできない他人を自由に動かそうとすると、そこに生まれる感情の「イライラ」や「悔しさ」に地団太を踏むことになろう。
あなたが感じることを認める。
よく自分で自分を受け入れる、好きになるとかいうけれど、これは承認欲求に繋がる。
相手に自分を認めさせるのではなく、自分の思っていることを(感じていること)を認めることで、実は満たされる仕組み(仕掛け)になっている。
この歌は2人称ではなく1人称で、上記抜粋部分の歌詞は、私としては「居場所を奪った本人ではないかと感じる。
舞台の上で演じる主役に憧れる新人が、見よう見まねで主人公の役を陰で演じているうちに、むくむくと湧き出てくる「欲望」は、「憧れ」からいつしか「嫉妬」、そしてこの「嫉妬」のなれの果てが「憎悪」であろう。
上記記事で、「感情を削がれる」と書いたが、さてこの「嫉妬」から「憎悪」まで進んだ自分をそのままあなたは認められるだろうか?
ここで面白いことに先に「自分で自分を認める」ことで満たされる仕組みと書いたが、「承認」という言葉を調べていただいたらわかるが、「誰かに認めてもらうこと」である。
あなたの発案を誰かに承認してもらう。これには必ず第三者が必要なのだが、この「誰か」は誰でもいいというわけではないのだ。
インターネット時代は、取捨選択の時代とも言えよう。点けっぱなしのテレビに文句を言って消す親は今はいない。
家に帰るとまずはテレビのスイッチを点ける友人がいたが、1人でいると寂しいからだと言う。
上記の言葉は「ヤンキー」のもう一つの意味、「移民」を思わせる。簡単に手に取ることができるものは、簡単に読み捨てられるだろう。
その時あなたは「ここじゃダメだ」と思うだろうか?
セカンドアルバムにてはっきりと自覚する。「嫉妬」する側ではなく、「嫉妬」される側にゆく。「認めてもらいたい」のではない、「愛されたい」のが人であるならば、いくつものステータスを集めるのがどれほど虚しいことかわかるだろう。
米津玄師の「迷いと幼さ」、昭和の流行語の「根暗」を内包したタイトル「アイネクライネ」は、「生まれなければよかった」と「生まなければよかった」を根本とするあなたの生における淋しさを希求する、とてつもなく切ない人生を表す。そうして私たちは永遠のアイデンティティを求めて旅する「移民」となる。
私としては「アイネクライネ」が、長く愛される楽曲であって欲しい。
そう定義つけて、今回のお話を終了としたいと思う。
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