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米津玄師の今後の世界観

変わっていく無情さ。
環境が変われば自分も変わる。それとも自分が変わったから、環境もかわったのか?
いつの時代も新しい世になる前には「破壊」が伴う。
人々は大いに傷つき、時には自然の叡智にどうしても勝てない時がある。

パソコンが調子悪くなった時、あなたならどうするだろうか?
新しいものを購入するだろうか?
それとも色々試したあげくダメな時、「初期化」して完全に始めからはじめるだろうか?
ジャンク品はどうしようもないほど壊れた状態だが、人によっては宝物にみえるらしい。


けれどそれが分解しようがけしてもとには戻らない時、きっとあなたは新しいものを購入することを考えるだろう。

さて「米津玄師」の顔出しは、今後どう変化していくのだろうか?
彼の今までの「世界観」は、「ボカロ」に特化する。
その歌の幅を広げるのがいいのか、彼自体の音楽そのものを底上げし、レベルアップしていくのがいいのか?

来月から始まる「空想」というライブを前にして、彼はそこをどう見るか?
目を隠すことで、彼は「神秘性」と「秘匿性」を確保してきた。つまりアイデンティティとして持ってきた。
そのアイデンティティを手放す時は、恐怖心が伴うに違いない。
彼の今までの楽曲すべての表現をここで考え直さなければならないだろう。
果たして彼は「米津玄師」を追いかけるのか?「保つ」のか?それとも米津玄師という名前に「引きずりまわされるのか?」彼自身、そんな不安が生じるかもしれない。

米津玄師と言えば「神秘性」「秘匿性」「宗教性」を私は感じてきた。「神秘性」と「秘匿性」を捨てた今、その中で米津に残されたのは、恐らく「宗教性」ではないだろうか?
悪い意味ではない。ましてや一つの宗教に当てはめているわけでもない。

前回まで米津の「ハチ時代」のファンたちが、彼が「ハチ」から「米津」に変わる時に生じた葛藤があるだろうということを書いた。
今度の彼の顔出しは「陰キャ」で「弱い」米津というイメージを打破しようとある意味もがいている米津玄師という人間にファンには映るだろうか?

顔を隠してこそできることがある。そしてその表現をファンは愛してきた。けれど今ここに来て、彼は両目を開けて初めて世界を見た、そんな気持ちかもしれない。
そして私が思うに、今は壊す時ではなく広げる時だ。それと同時にもっと深く彼自身の楽曲の中に潜る時であると思う。

いつまでも子供ではいられないように、いつまでも同じ場所にはいられない。米津は留まることより「変化」を選んだ。
一つ選んだ瞬間に一瞬だが、まるですべての扉が閉ざされたように思うかもしれない。


けれど選んだ以上、後戻りはできない。
ある意味ボカロの「先駆者」とも言える米津は、ここに来てこの10年の総決算として一度それを捨て、また再構築するのだ。
米津玄師のファン、私も含めて彼と共に「変化(成長)」しようではないか?

君が歌を歌う この町の中
明かりを灯せ 素敵なこと
1、2、3、4、5 ほら合図で君に会いに行こう
新しい灯を迎えに行こう

「ワンダーランドと羊の歌」歌詞より

トンネルの先には何がある?街の外に踏み出して行く
1、2、3、4、5 
ほら合図で君に会いに行こう
新しい灯を迎えに行こう

「ワンダーランドと羊の歌」歌詞より


エンディングは常に次のオープニングを伴うのだ。
素敵なことに灯りを灯し、トンネルの先には何があるか心許なく悩ましい。
「前途多難」だと思うのならば、今までそのすべてを乗り越えて来たのではないかと彼に言いたい。
ライブを目前に彼はどのような心境だろうか?

これは前回のライブ「変身」が始まる前の米津のツィートだ。久しぶりのライブツアーに緊張しているという。


それでは今回のライブ「空想」はどうだろうか?
顔出しして初めてのライブである。また違う意味で緊張しているかもしれない。

「ライブ」という「一人舞台」をどう演じるのか?
しばしば混合される「空想」と「妄想」だが、アーティストの彼はあえて「空想」とタイトルをつけた。
空想とは「現実としっかり区別されたファンタジー」であり、妄想とは「自分自身も含めたリアルであるファンタジー」である。
米津と共に年を重ねるファンたちへ向けた、彼のメッセージでもある今度のライブ「空想」に期待したいと思う。

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