私について
「命」というものがあるのなら
それは「表現する」ことに他ならないのではないでしょうか?
または、「経験」と言ってもいいかもしれません。
どんな人にもその人だけの経験や表現があり
そのために生まれてきたと言っても過言ではないのでしょうか?
有名無名、健康病気、どんな状態も過ぎ去るものであり
ある意味では自分自身ではありません。
起きている状態もそれは「表現」の一つかもしれませんが
「表現」とはもっとその人の本質に近いものではないかと思うのです。
なので「命」=「表現」ではないかと近頃感じてます。
ところで、山の麓に立たされたら、何だか上らなければいけない気持ちに
なりませんか?
事実、皆頑張って上っています。
そして上れないものは何かしらのコンプレックスを抱え
上るものを皮肉ったりしています。
でも、そうやって「上らなければ」という思いすら
「思い込み」だったとしたら?
これから書こうとしている内容は、私が十五歳の時から三十年以上
ただひたすら求めまくり、失敗ばかり繰り返し、絶望に打ちひしがれ
何度も投げやりになり、つかんでは手の中で泡となって消える夢に
すべては誰かのせいだと、世の中のせいだと、果てはこの世界を
創造したものがいるのなら、その創造者が狂っているのだと
そんな風に思いながら自分自身が「経験」した内容から感じたものです。
私もまた山は「上らなければ」と思ってコンプレックスの塊になった
一人でありました。
なのでこれはあくまでも、私の「表現」であり
正しいとか間違っているとか考えるものではありません。
多分に独断や偏見、思い込み、あっても然りです。
それでも今、何かしらの悩みや思い、どうしようもないことだと
苦しんでいる方がいるのなら、「ああ、こんなこともあるかもしれない」と
参考にしていただければ本当に幸いです。
P.S 2022年12月23日から、今日まで米津玄師さんについて書いてきました。ネットの中にいた私ですが、米津さんは多くのことで私を励ましてくれました。今もなお私を励ましてくれる米津玄師さんにせめてもの御恩返しとして、今後も彼の記事を書いていけたら、そして彼の優しさに多くの人が出逢えますようにと願うばかりです。
私は「私」のことを、本当の所書く気はありませんでした。けれど彼の励ましによってほんの少しだけ描いてみようと思ったのは、「私ごと」は「全」であり、またその「全」とは、この世の真理に他なりません。
優しさこそすべてであり、あなたを癒す「鍵」だと教えてくれた彼について記していけるのは、「幸運」であり私の唯一の幸せだと今なら言えます。
どうかすべての物語が「ハッピーエンド」でありますように。
彼の願いもきっと同じだと信じて、序章を終わらせていただきたいと思います。
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