米津玄師の「優しい人」による罪感
2017年に発表されたアルバム「BOOTLEG」から3年後。米津はコロナ禍の中で次のアルバム「STRAY SHEEP」を出した。
「カムパネルラ」から始まるこのアルバムは、米津の3年の月日を感じる大人っぽい内容に変化している。
アルバムの中の楽曲「優しい人」は、どうやらいじめに関して露骨に書かれた内容の歌らしい。
米津の経歴の中に自分がいじめにあったことがあるような記述はない。この歌の解釈に3人の登場人物がいると言われる。いじめを受けている「あの子」その子を「綺麗だ」と思っている「あなた」そしてそれを見ている「私」はこの歌の主人公だ。いじめを受けている子を積極的に助ける場は多分あまりないだろう。だとしたら米津もまたそれらを見ていた1人ではないかと思う。
作詞をする人ならわかるかもしれないが、その言葉全てがその作詞者の「経験」ではないだろう。
作家ならばその立場を想像し、考え、頭の中でその歌の主人公になってみる。それが必ずしも「経験」から出たものではないからこそ「クリエーター」なのだ。
いじめのメカニズムなら専門家がもう解いているだろう。けれどそれはいつだって「理論」というどこか架空上のものである気がしてならない。
この歌の主人公はとても正直だ。「私じゃなくてよかった」とは、実はなかなか言えない文句だろう。
ただ非常に強い「愛されてない」思いを抱いている。比較とは誰か他人がいて成り立つものだ。自信など持たなくていい。ただ「私」であるという思いが自信に繋がるのだ。
「迷い」ほど「誠実」なものはない。
「そもそも何かをすることは人を傷付けること」になるのではないか?
「そういう戒めを自分の中に持っておくのが責任なのか」とか、米津は色々なことを考えたという。
発信者としての「責任」とは何だろう?
米津はアルバムが発売された当時のインタビューでこう答えている。
「生きているだけで罪を犯している気持ちになる」という米津に対してインタビュアーのアナウンサーの女性が「そんなに1人1人に届く曲に、責任を持たねばならないものだろうか、やっぱりそこまで思われますか?」というような言葉を返している。
全ては「誤解」から成り立っている。もう一つの言い方としては、独自の今までの「経験」というフィルターを通っての解釈において、その人を評価しているとも言える。
米津の言葉は、人によってはひどく重く感じるかもしれない。けれどこれは「別に大それた話ではないと思うんですけど」という前置きからも、彼自身が時々感じる「罪感」とも言える思いなのだと思う。
人は大人になっても心の中に消化しきれなかった「子供」を持っているという。それを心理学では「インナーチャイルド」と言う。
この歌の主人公の持つ思いは、ひたすらにただ「愛されたい」という思いなのだ。それと同時に発生するのは、強い自己否定と「愛されたいあの人に愛されるためには、自分であってはいけない」という思いだ。
これは米津の言う「生きているだけで罪を犯している気持ちになる」という思いに似ている。
ここで注意したいのは、最初にこの歌は「いじめ」をテーマに書かれている歌らしいと書いたが、傍観者も含めて「加害者」を擁護するものではないということだ。
先にこの歌の主人公を「正直な人」と書いたが、その気持ちはけして「音」として他の誰かに発信されてないものだ。
「幸せ」とはどう定義するかにもよるが、人によっては非常に「退屈さ」を伴うものかもしれない。
この歌の主人公は「憐れみ」をそっと隠したのだが、これはいじめを受けている子に対してのものではなく、「己自身」に対しての憐れみ、つまり「自己憐憫」であるのではないかと私としては感じる。
米津が言う発信者としての「責任」は、どこか彼の罪感に繋がっている。
その「責任」は、彼の一挙手一投足に対して過敏に過剰に反応してしまう受信者たちに向けられている。彼の極々小さなプライベートなことでさえ、敏感なファンたちを傷つけてしまうことを思うならば、その「責任感」こそが「罪感」だとも言えるだろう。
最後にこの歌はこの歌詞で締めくくられる。これをどう取るかだが、ある意味ひねくれた私はこう思うのだ。
「取り残されるのが 私じゃなくてよかった」という主人公は、けして本気でそう思っているようには思えない。
本当は「私」の方が何倍も優れていると思う。ただ、「あなたのように優しくなりたい、正しくなりたい、綺麗になりたい」と思う自分は更に凄い「私」なのだ。
「私は悪い子だ」という時、得られる思いは「自己正当化」ではないだろうか?
「そんなに1人1人に届く曲に、責任を持たねばならないものだろうか」と米津に問いかけたアナウンサーの思いは「善意」である。
そして「叱って欲しい私」は、罰を欲している。
冒頭の米津の言葉をここで再び引用したいと思う。
発信者としての「迷い」と「決断」こそが、彼の「罪感と罰」であり、その後の「責任」こそが米津の「戒め」である。
私に取って米津玄師という人は、人の「善意」と「正義」こそが、ある種の「危険信号」であり、「正しい」位置に立つ者だけが「裁き」という権威を持つことができるというある種の皮肉を込めたメッセージを発信している、この世界には極めて稀な「奇特」な人だと思っている。
米津の「罪」はトップに立ったという「責任」を引きずりながら、それでもどこか「ただの」米津玄師なんだと言っているように思える。
彼の「代わり」はどこにもいないのだと思う時、米津玄師という名前は非常に重たくなるが、米津のファンとて、それぞれのフィルターから彼を見つめているのだということを思えば、その罪という「責任感」は深刻さを失い、「俺もあなたたちと同じなんだよ」という親密さに変わる。
だからどうか見つめて欲しい。米津玄師と言うアーティストを見つめているあなた自身が持っているフィルターを。
米津のアルバム「STRAY SHEEP」は、全ての人に当てはまるのだと、私は感じている。
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