メランコリーキッチンに見る今後の家庭観
狂気と正気の境目、夫婦喧嘩の時は台所に逃げてはいけないなどと言う。
平成中頃に問題になった「キッチンドリンカー」、非常に古い言葉だが「男子厨房に入らず」などと言う言葉もある。
さてあなたは「キッチン」と「台所」では、どっちがしっくりくるか?
また「シンク」「流し」という言い方もあるが、正しい意味合いは置いて置いて、そこそこの家庭での言い方があるだろう。
「キッチン=食卓」という家庭も多い。そういう意味では、家族が集まるのがこの「キッチン」であるという言い方もできよう。
米津玄師が求めていたものは、普遍的な何かであり、また上記「自分が好きなものしか手に取らないし、なんとなく耳に入ってきた話題のものしか手に取らない人」である「俗なもの」、すなわち「俗世間」に浸透するものである音楽、それが「ポップス」なのだ。
私たちは「家庭」に属する。すなわち「母」がいて、「父」がいるのだが、そこでの摩擦が、自分を苦しめていることに気づけない。
「メランコリー」という憂鬱、米津はそれを普遍的な「キッチン」と名付けた。
もしもこれが「彼女との同棲」ならば、「独りでいいや」と言えないことはないだろう。昭和の時代、「同棲してる」というのはどこかステータスであり、甲斐甲斐しく彼氏の世話をすることが、それをできないでいる友人の上をいき、なおかつ「正式な道でないこと」こそが、アウトローである、すなわち「粋である」という、その時代の最先端であった。
親からの「離別」を感じ、「時が止まった」ことでようやく独り立ちできる喜びと不安、「何らかの人生が終った」というのは、米津の感じた「感傷としての真理」である。
「笑って笑って笑ってそうやって」と言う歌詞から感じるのは何かしらの「狂気」であると言ったら言い過ぎだろうか?
「立ち込めた」、つまりけむりのような憂鬱を、ごまかし「煎じ薬」のように飲み込んだ「あなた」は、米津にとって「どこか滑稽」なのではないだろうか?
「救われた」をもしも「足元すくわれた」と解釈するならば、
母であれ、恋人であれ、何かしらの倫理による解釈をしての行動は、その本質からどんどん離れていくだろう。
一家団欒というどこかゆううつを伴う中、子供たちは「電池の切れたタイマー」のごとく、口をつぐんでいく。
「さもさもが嫌だ」という米津の言葉をどこかで読んだ。
それは「形」をつくることが嫌だという意味ではない。作られた可愛さである「媚び」としての「家庭」、それは「母」だからこうならなければならない、「父」だからこう言わなければならないという、四角張った作られた家庭に物申す米津だと思うのだ。
家を出ることで感じる分離は、ある種のシフトだろう。今まで親が対応していたことが、直接自分に降りかかってくる。
それは「不安」だろうか?「挑戦」だろうか?
いずれにせよ「零」は、希望を含む。
「メランコリー」なキッチンとは、ただただ「偽物の愛」なのだ。
「どうやって物語を終わらせて、どうやって後ろに引き継いでいくか」
私としては、米津が今なお「過度期」にいながらも、はじめのファンたちと一緒に歩いて行くために、なさなければならないことという、「常識」に感化されない、米津玄師に気づいてもらいたいと思っている
昭和の時代が良かったとは言わない。そこに「愛」はあったのか?
恋愛は、この世に色をつける。「色即是空」ではないが、何かしらの「色」を、常に私は米津から感じている。
「lemon」のヒットは、一瞬であり、すぐにコロナ禍に入り、何もかも「捨てなければならない」試練に米津は物儀を醸し出す。
「価値観」という押し付けを、米津はどう感じているか?
「きっと魔法にかかったように世界は作り変わって」行く、その「世界」とは、この小さき「家庭」なのだと思う時、「納得」ではない、どこか危険を伴うキッチンを、作られた価値観と言ったら言い過ぎだろうか?
この部屋にたちこめた憂鬱とは、「普遍的な何か」であり、偽りと言う憂鬱を、私たちは貪欲に取り込んでしまう。
私はこの記事を、常に迷い、迷いながら考えている。
米津は歌の世界というリアルに移って来た「移民」だと言う。
インターネットという土壌は、ある意味この事実無根な現実より真実である。そこには、時を伴わない安易な日常としての「現実」があるのだ。
さて、ここまで書いてきて、最初に書いた「狂気と正気の境目」とはどこだろう?
「キッチン」に関わらないものなどないように、「私としての意識」に責任がないものなどいないだろう。
言うなれば「食する文化」である「キッチン」は、米津の言う「ポップソング」のように「普遍的な何か」である。
食卓に並ぶのは、昭和の時代「おふくろの味」であり、そのイメージは大抵「和食」であった。「花嫁修業」などという言葉もあったが、画一的な結婚よりも、「同棲」の方が粋だという、それは新しい価値観というより、どこか偏った「自己満足」である。
役割に呆けて、その本質を見失う。そしてその「本質」さえも入れ替わる、そんなステップとしての2ndアルバムとしての「YANKEE」は、言うなれば心の奥底で慣れ親しんだ「ボカロ」との決別を意識したものだ。
キッチンは、さまざまな匂いが伴う。彼はコロナ禍において「ルームフレグランス」を、自身のグッズとして販売している。家庭においてのさまざまな「匂い」を、「チャラ」にするのではなく、匂いに匂いを重ねる胡散臭さを彼は感じて欲しいと思っているのではないだろうか?
メランコリーは「憂鬱な台所」である。プロフェッショナルになれるのは、「男」であると言っていた時代ですら、「キッチン」は女の物であった。そこで繰り広げられる様々な問題を、「メランコリー」なキッチンであると言うならば、親子関係は夫婦関係であるという心理学も生きてくる。
もう一度という言葉に込められたのは、何だったんだろうか?
これは今後の仕事においての彼への「掛け声」としてのエールを送って、この記事を終わりにしたいと思う。
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