米津玄師の両義性と石
この記事は書いていいかわからないが、ヤフーの記事を見つけたので書いてみたいと思う。
私が間違っていたと言えば、「なぜ間違ったのか?」「間違えないためにはどうしたらいいか?」と問われる。
そうすると結局、自分をもっと良く見せていかなければならなくなる。
それじゃあどうするかというと、今度はこれをもっとよくするために努力することになる。そうこうしているうちに自分が何なのかわからなくなるのだ。
そこで出会ったのがその音楽だという。そしてこの音楽が「大衆音楽」なのだとするならば、米津は今、この全てを網羅した頂点にいると思うのだ。
米津の楽曲「ポップソング」は、そのヴィジュアルが大きく話題になった。
ゲームのキャラクターのような出で立ちは、米津のプレイステーションの出演を心待ちにしていたファン達に衝撃を与え、一部のファンたちはその米津のコミカルなコスプレとCMでの滑稽な動きを喜んだ。
「LADY」が今までの米津と違う曲調だと言われているが、それならばこの「ポップソング」は、彼らしいと言えば彼らしいが、そうでないと言えばあの圧倒的なCMでの演技力だろう。
突然現れたのは、悪魔の出で立ちのような米津。
少なくとも私にはそう見える。4つに縛った髪の毛は4つの「角」だ。
コロッセオのような舞台の中の兵士は、武器を持った上流社会の兵士達だ。
さて、人間たちはすぐに見てくれに騙される。先ほど「悪魔のような出で立ち」と書いたのだが、そのまま悪魔だとは限らない。
悪魔がある意味、悪魔の姿で現れないことはわかるのに、神が悪魔の出で立ちで現れると言う「ユーモア」を解さない。
米津扮する悪魔は「神」なのだ。
「lemon」で一躍有名人になったことを「音楽家として自由になれた」と言う。けれど少しわからない部分がある。
素人考えだが有名になったほうが「不自由」になるのではないだろうか?
昇り坂にある多くの障害を「なんらかの障害」だと言うならば、それは不確かだった「不安」や「怖れ」がある意味彼を「不自由」だと感じさせてたのかもしれない。
名声を得た時に感じる快感と不快感が同時に起きる。
これこそが彼が言う「lemon」での時の言葉「対岸の火」のことではないだろうか?
私が間違っていたと言えば、「なぜ間違ったのか?」「間違えないためにはどうしたらいいか?」と問われる。
そうすると結局、自分をもっと良く見せていかなければならなくなる。
それじゃあどうするかというと、今度はこれをもっとよくするために努力することになる。そうこうしているうちに自分が何なのかわからなくなるのだ。
米津はひたすら「両義性」だと言ってきた。ところが「POPSONG」はどうなのか?
そもそも「両義性」とは何なのか?ただ打ち消しの言葉を米津は「両義性」だと言ってきたわけではないと思う。
子供の発表会や運動会などで、親は必死でビデオテープを回す。あの小さなファインダーから見えるのは我が子の姿だと言っても、ほとんどリアルな姿を追えなくなる。「どうせ見ないから」と撮影しない人もいたが、それはかなり稀なケースだろう。
カメラを回すことで、返ってリアルな我が子が見えなくなる。
遠いほどアップにすればいいのだけれど、それはあくまでもカメラの中の我が子である。そしてそのフィルターこそが、目の前のことを見えなくする。
見えないのだから見る努力が必要になるが、この「努力」こそが、人を間違った方向に導きだしてしまう。
これを米津の「両義性」だと言う人もいるが、私はそうだとは思えないのだ。打消しが両義性なのだろうか?
米津の歌に癒されたという人は多いだろう。けれどこの部分には何かざらざらした思いを抱いたのではないだろうか?
本気で変わりたかったら、安らぎよりもざらざらした思いの方が、人を変える。なぜならばジンジンとした化膿する傷がなければ、治したいとも思わないからだ。人は「自由」を求めながら「不自由」を欲する。それは米津の言うような「自由」が、「不自由」から発生する思いだからだ。
ここで「罪悪感」がついてくる。自分の都合のいい出来事は、常にこれが付き纏うものだ。1つの考えに囚われて身動きが取れなくなることがある。
頂点に立つと色々なものが自分の前に現れる。それは何なのかと言うと、先に書いた「頂点」とは誰もが昇って行けるものではないからだ。
それは一種の達成感ではあると共に不快感を伴うとしたら、その道をたどって多くの人が昇ってくるのが見えるからだ。
米津の後を追って、道なき道を行くべきか?それとも彼がたどった道を、二番煎じでもいい有名になれればとある種のできあがった道を昇るのかはその人の好みだ。
MVの最後に米津が兵士たちにコントローラーを渡す場面がある。
米津扮するキャラクターに翻弄され、右往左往しながら出口まで引きずられてきた兵士たちが最後に渡されたものは、コントローラーはコントローラーでも、それは「石」でできているものだ。皆様はお気づきだろうか?
それは何をコントロールするものなのか?これが「石」であることに気づけばきっとこの意味を理解できるはずだ。
ただの「石」だと気づかずに大喜びする兵士たちの末路が、最後のコロッセオの中に向かって吐き出される炎なのだと思う。
現在「空想」というライブを行う中、このことについて考えてもらえれば幸いである。
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