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新天地「Bremen」と今後の米津玄師

グリム童話「ブレーメンの音楽隊」のように新天地を目指す、米津玄師の3作目『Bremen』。先行シングル「アンビリーバーズ」で歌った、既存のものを信じないことで自分たちの信じるものを見出す、というテーマの先にあるのは理想郷ではなく、目の前にある大切なものだ。それを歌った「Blue Jasmine」は、美しいラヴソングだが、そこでも彼は”変わらなければならない”と歌う。バンド編成にこだわらず自ら手がけた多彩なトラックやストリングスやピアノを入れた幻想的なナンバーなど、これまで以上にカラフルな14曲が変わり続ける彼を浮かび上がらせる。穏やかな口調で『Bremen』が描く新しいヴィジョンを、米津は語ってくれた。

「FanplusMusic」より

タイトルは「ブレーメンの音楽隊」からですね?
米津:はい。アルバムの曲作りを始めて半分ぐらいで、「ウィルオウィスプ」という曲を作ってる時に何となく「ブレーメンの音楽隊」の話が浮かんで。今いる場所に疲れた動物たちが、もっと楽しい場所ブレーメンに行って音楽隊でもやって暮らそうぜっていう話じゃないですか。それが、今自分が考えてたこととか、アルバムを作るにあたってイメージしていた映像みたいなのとすごくリンクしていて。それは廃墟になった街の、使わなくなった高速道路の上を、まだ生きている街の光を背に進んでいくっていうイメージ。それがすごくブレーメンと似てるなと思って。

「FanplusMusic」インタビューより

これは米津のアルバム「Bremen」の発表に当たっての彼へのインタビューの最初の部分である。

グリム童話「ブレーメンの音楽隊」は、私としては「Bad End」である。
なぜなら「ブレーメンに行こう」といいながら、彼らは「ブレーメン」にたどり着けなかったからだ。

壊そうと思えば瞬く間に 壊せてしまうものを
僕はまだ壊れそうなほど 大事に握りしめている

「フローライト」歌詞より


いつもの暗い顔 チープな戯言 見過ごすようにまた優しいんだろう
見え透いた嘘も隠した本当も その目から伝わってきた

「LADY」歌詞より

「ブレーメン」とは、めざす動物たちにとって「ユートピア」だった。けれど「いいや、ここでいいか」というのがこの「ブレーメンの音楽隊」のストーリーである。
何かしらの教訓を感じるのが「グリム童話」だが、アルバムのタイトル「Bremen」が「何となく」浮かんだという米津の、この「何となく」というのが、いつも私たちが表現できない非常に「個人的」なものである。

「 Live from 2019 Tour」より

このインタビュアーが言うには「新天地を目指す」のが「ブレーメンの音楽隊」だが、その途中で諦めた物語がこの「ブレーメンの音楽隊」であり、どことなく今の米津にリンクすると思うのは恐らく私だけかもしれない。

変身MV画像より

「それは廃墟になった街」「使わなくなった高速道路」「まだ生きている街の光」そして「それを背にして進んでいく動物たち」
いつだって壊そうと思えば簡単に壊せるのが「人間関係」だ。
ただ、ほんの少しでも「希望」があるならば、そこに賭けていきたい。

「いつもの暗い顔やチープな戯言」を見過ごしてきたのは、私としては米津自身であり、「見え透いた嘘も隠した本当も」米津自身が今まで見抜いてきた社会の中の欺瞞であろうと思う。

確かめていたんだよ僕らは ずっと目には見えないものを
ふいにそれは何かを通して 再び出会う

「フローライト」歌詞より


レディー 笑わないで聞いて ハニー 見つめ合っていたくて
君と二人 行ったり来たりしたいだけ

「LADY」歌詞より

人生での大きな出来事は、その人を根本から変え得ることができるだろうか?人の死は、非常に大きなショックを与える場合と、ある種の救いをもたらす場合がある。恋人の死は人生が変わるほどにショックだ。けれど、人生80年などという言葉もあるが、80歳を越えてからの死は、どこか諦めと肩の荷が下りたような安堵感を周りに与えたりする。

「ボカロ」は、ボーカロイドという機械が歌う。デビューから14、5年経つとライブで語っていた米津。その間インターネットの世界も、またSNSというツールもかなり変化してきただろう。

ボカロ時代、姿かたちもも見えない米津に恋をした女性たちが、今もファンとして彼の側にいる。ライブ「脊髄がオパールになる頃」で、そんなファンを「1人も落としたくない」と語り、ちょっとした物議を醸しだしたのだが、今回の新曲「LADY」は、逆の意味でファンをざわつかせ不安にさせている。

それでは米津玄師に今までいわゆる「恋人」と呼べる人がいたのだろうか?

アルバム「Bremen」の最後の曲「Blue Jasmine」は、ある種の幸福な恋人同士を思わせる。

古いツイッターで恐縮だが、このツイートでは米津がはっきりと「昔の彼女」と言っている。

これから僕らはどこへ行こう? 
ねえダーリン何処だろうときっと となりにあなたがいるなら 
それだけで特別なんだ
キスをして笑い合って 悪戯みたいに生きていこう
全て失くしてもなくならないものを見つけたんだ

「Blue Jasmine」歌詞より

米津が若干20代前半の頃の詩「Blue Jasmine」と「LADY」を比べてみる時、どちらも幸福感が漂い「君以外に考えられないだけ」という素直で純粋な「恋愛」を感じさせる。

ただ一つの違いは、米津が今2度目の「過度期」に入っており、試行錯誤しながらも自分自身をさらけだしたい、そんな欲求を募らせているような楽曲「LADY」であり、右目を解禁してのビジュアルである。

「YANKEE」はさっき言ったようにそれまでの自分が培ってきた、ヘンテコな音、不思議な音の使い方をした曲が半分くらい、もう半分は全然違う新しく作り上げたものでできた作品で。だから次に作るアルバムはヘンテコな音をという考えを全部取っ払って、「YANKEE」より踏み込んだものにしたいと考えていました。

「音楽ナタリー」インタビューより

米津の歌は私としてはだが、一見バラバラで適当に組みたてかのように見えるものも、実は綿密に計算されて出来上がったものであるような気がする。
それは「ヘンテコ」であり「不思議」なものだ。
芸能人のパーソナリティは、ある意味ないがしろにされることが多い。
そして「ブレーメンの音楽隊」は、ある種の「逃走劇」である。

「逃げ」に関しては、賛否両論あるものだ。「逃げていい」のか「悪いのか」は、時代を象徴する。
昭和時代、いやもしかしたらそれ以前もだが、「逃げ」は「悪」だった。逃げた先にあるものはなぜかいつも「破滅」だと子供たちは大人に言い聞かされてきたのだ。ところが平成に入ってからはむしろ「逃げ」が美徳でさえある。

困難など次から次へと槍のごとく人を襲うものだ。その全てが逃げられるものではないが、米津の言う「逃げ」はそれとはまた違ったものだと思う。
それはただの天邪鬼ではない、彼独特の「両義性」なのだ。

恋愛から結婚へ移行するとき、その全てが変わるのではないだろうか?
それは「恋人同士」なら二人っきりでいられても、「夫婦」になると双方の家族などしがらみが生まれる。

2人きりの時なら、「貶され」「奪われ」「笑われ」ても、時にそれは反対されるほど燃え上がるような効果と同じような効果をもたらしたりするのだが、一緒に暮らし、生計を共にすることで、相手の運命も自分自身にかかってくる。

「身内の不幸は我が不幸」というが、それは依存度が高いほどそうなる。
それを忘れて本気で傷つけあうならば、その結果はもう到底笑い合えない。

フローライト こんなものが 世界で一番輝いて見えるのは
フローライト きっと君が 大切でいる何よりの証だろう

「フローライト」歌詞より

レディー 何も言わないで ハニー 僕の手を取ってくれ
君以外に 考えられないだけ
ベイビー あの頃みたいに恋がしたい 書き散らしていく 踊り続ける

「LADY」歌詞より

昼間の星みたいに隠れて 今は見えないとしても
幸せなんてのはどこにでも 転がり落ちていた

「Blue Jasmine」歌詞より

綺麗な言葉が羅列する。これを米津の純粋さと取るか、それともこれすらも何か暗号のような遊び心がばらまかれているのか?

「逃げていい」と言うが、人は案外逃げるのが下手だ。途中で起きた出来事によって、新天地「ブレーメン」に行くのをやめた動物たち。
多くの葛藤を抱えていたはずの動物たちが、「ここでいいか」というのを、身の程を知る「諦め」と取るか、目指す途中で挫折した中途半端ないくじなしと取るか、はたまた積極的にそこに留まることを選んだ潔さ、すなわち積極的な「逃げ」と取るか?

きっと何だか心がざわめくだろう。

優しい言葉が羅列する、「フローライト」と「LADY」と「Blue Jasmine」
「夢」と米津を見つめ、不意にはたと気づく。
見つめた時のみじめさは、あなただけのものではない。
それを知らせたくて、米津は現在ライブを行っている。
米津は今、自分自身の葛藤を、ファンと分け合いたいと思っている。


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