![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/126502099/rectangle_large_type_2_c87f28dc7273feea687c97e6046f9b22.png?width=800)
北海道大学には「言語と論理の哲学──入門」という講義がある。このnoteでは講義の課題として出された哲学に関するレポートの、没テーマを供養していこうと思う。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/126502401/picture_pc_134433251547954e75088883214bfd69.png?width=800)
アンパンマンの中心はアンパンと呼べるのか
多分呼べない。アンパンマンがちぎりとる一人分のアンパンに対して彼の顔は大きすぎる。彼の顔が全て食べられたとき、明らかに真ん中のあんこだけを渡されている奴がいる。アンパンマンの中心はあくまでも「あんこ」である。
「トイレに行きたい」とはトイレに行きたいという意味ではないことについて
「トイレに行きたい」とはトイレに行きたいという意味ではない。一般に「トイレに行きたい」とは「排泄をしたい」という意味を含む。このように人間は元来、曖昧な表現を理解する能力が備わっているのである。ところで、本当にトイレに行きたいだけの人がいたら怖くないですか。
美容室における人数待ちの椅子は偶数にすべきか奇数にすべきか
シチュエーションが美容室なのは簡単のために全ての客が一人で使うという制約を設けるためで、そのほか「全員が一人で使う地下鉄」「お一人様専用カフェ」としてもいいかもしれない。そんなものがあるのかは知らない。
さて、このテーマを見たみなさんはどちらにすべきだと思っただろうか。当然、奇数にすべきだと思う人もいるだろう。一見それが妥当そうだ。しかし、奇数にして完全に一個おきに人々が座ったときの「隣に座るな」オーラは偶数のそれを上回る。故に奇数の座席には偶数のものよりも隣り合った座席ができにくい。一旦隣あった席ができればさらに新たな隣りあった席ができやすくなる。そのため結果として偶数の方が座席を有効活用できるのである。
草と笑は同じか
同じなわけなくて草。
宇宙全体を土だと仮定したら我々は根菜か
場合による。基本人間は根菜たりえないが、ステージの上に立つとき、「観客を野菜だと思え」という言い伝えに従うのならそのとき観客は全て根菜となるだろう。
テセウスの船の文章でテセウスの船をする
なら、全部のパーツが違くなった船って、テセウスさんがクレタ島に行った船と一緒なんすか? まじでオリジナルのパーツが全くないんだからガチで別のやつって言うべきなんじゃないすか?
そうかもね
オマケ(本日のおすすめの記事↓)
レジはなぜ怖いのか
おわり
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?